3−1

     ふう、とため息がこぼれてから、フィンはあわてて唇を手で抑えた。

     気鬱がそのまま現れたようなため息は、一人の時ならばまだいい。だがこの場には他に人がいるのだ。そろりと視線を動かせば、美しいひとが苦笑を浮かべた。薄紅色の唇が動く。

    「お疲れのようですね、お嬢さま。お茶にしましょうか」

     涼やかな声でなされた提案に、きまずい想いを抱きながら「いえ」とフィンは短く応える。

    「仕事はまだひと段落ついていませんし、仕事も始めたばかりですから」
    「あらあら、お嬢さまはまじめですね。アンドレアスさんもおっしゃっていたでしょう。急ぎの仕事ではない、と。少しくらいのお茶くらい、大目に見てくださいますわよ」
    「いえ、でも」

     抗弁しかけたフィンの唇を、そっと細い指で押さえてその人は言う。

    「どうかお付き合いくださいな。ルイスさんが持ってきてくださった、新しい茶葉がありますの。花の匂いをつけたお茶なのですって。飲みたくてうずうずしていたのですわ。……ね?」

     子供のように小首を傾げて、華やかな笑顔でお願いされる。

     断られるなんて思いもしない。そんな態度が、思いのほか、人を動かすのだとこの女性に会ってから思い知ったフィンは、両手をかかげて「降参」の意を示した。にっこり笑って女性は立ち上がり、部屋を出て行く。お茶を淹れるために階下の台所に向かったのだろう。
     新聞が散乱しているテーブルを見回し、フィンは再びため息をついた。

    (なんだかなあ)

     椅子から立ち上がり、広げたままの新聞を畳みながら、フィンがそう考えてしまった理由は、今日も出かけるアンドレアスに置いていかれてしまったからだ。

     ーーーーあの日。公園でアンドレアスとルイスの二人と会話してから。

     フィンは貸本屋の受付という仕事を減らし、探偵の助手という仕事を、渋るアンドレアスから無理やり獲得した。行方不明の姉をアンドレアスのそばで探す、という下心から芽生えたフィンの動きを、意外なことにアンドレアスの現在の助手であるルイスは支援してくれた。

     ルイスにもなんらかの下心があるから支援してくれたのだ、と、その時点でも気づいていたのだが、思い通りに進んだ事態に、フィンは浮かれていたのだ。実際にアンドレアスの下宿先を訪れて、フィンにあてがわれた仕事内容を知らされるまで、姉の行方を掴めると信じていた。

     そんな自分を、フィンは「甘い!」と罵りたい。

     フィンにあてがわれた仕事は、アンドレアスが収集した新聞を切り抜き、ファイルに綴じるという内容だった。つまりあちらこちらに奔走するアンドレアスに付き従う仕事ではなく、アンドレアスの下宿に引きこもって行う地道な仕事だったのだ。

     じきに必要な仕事だと理解できたものの、フィンが想定した助手の仕事とは大きく様相が異なる。思わず失意をあらわにしたフィンに、ルイスは軽やかに笑ったものだ。

    『助かります。僕もアンディも、必要だとわかっていても、なかなか出来ない仕事ですから』

     話が違う、と主張したくなったフィンだったが、残念ながら言葉には出来なかった。彼らは押しかけ助手であるフィンに、正しく仕事を与えてくれたのだ。文句が言える筋合いではない。

     ただ、その仕事がフィンの思惑から離れていたというだけで。

     新聞をきれいにたたみ直して、テーブルの一角に積み重ねてから、ぼうっとしていると、コツコツコツ、と扉を叩く音が聞こえた。ハッと気づいたフィンはあわてて動いて扉を開く。
     はたして、ティーセットを両手に持った女性が立っている。

     彼女はそのままくるりと室内を見回し、きれいに片付けられたテーブルを見て、嬉しそうに微笑んだ。扉を開けて抑えたままのフィンに「ありがとう」と告げて、テーブルにティーセットを広げる。ふわりとただよう薫りで、焼きたてのスコーンまで添えられている事実に気づく。

     どれだけ惚けていたのか、とフィンはまた、軽く落ち込んだ。

    「どうしたの? 冷めないうちにいただきましょう?」

     その声にあいまいに微笑んで、すすめられた席に腰掛けながらフィンは口を開いた。

    「ベインズ夫人。アンドレアスたちから連絡はありました?」

     そう尋ねれば、薫り高い紅茶を淹れたティーカップを差し出しながら、夫人は応える。

    「いいえ、まったく。ですからいつも通り、夕食までには帰宅されると思いますよ」

     そう言って、「どんな夕食にしようかしらねえ」とおっとりつぶやく様子を見て、フィンは苦笑した。
     
     いつも通り、アンドレアスたちの行動に異変はないという。そんな事実を安心すべきなのか、そうではないのか。自分でもわからない気持ちを持て余しながら、フィンはティーカップを受け取り、ミルクを入れる。フィンはどんな紅茶でもミルクを入れる派なのだ。

     そんなフィンとは対照的に、お茶はストレートに飲む派らしいベインズ夫人は、ティーカップを口元に運び、紅茶の薫りを楽しんでいる。その姿はとても優雅で、貴族といっても通じるだろうと考えてしまうほどだ。だが現実には、ベインズ夫人は貴族などではない。軍人だった夫が遺した資産で下宿を経営している一般人で、アンドレアスが住む下宿の大家なのだ。

     アンドレアスに、ベインズ夫人を紹介された時、フィンは心の底から感嘆した。

     かつて女優として舞台にも立っていたというベインズ夫人は、それほどの美貌を持つ人だったのだ。はちみつ色の髪に、新緑の瞳。いつも微笑んでいる、ふっくらとした唇のそばにはポツンと黒子があって、同性の目から見ても、どきりとする色気が漂っている。

     ルイスが書いてきたアンドレアスの探偵記録にも、ベインズ夫人は登場していた。

     でもその描写はとてもそっけなく、あくまでも普通の「大家」として描かれていたから、フィンはベインズ夫人をもっと年嵩の女性だと思い込んでいたのだ。だから初めて会ったときにはひどく驚いてしまって、ベインズ夫人に笑われてしまった。「よく驚かれるのよ。どうしてかしらね」と悪戯っぽく笑いながら、ルイスを見やるベインズ夫人の反応をよく覚えている。

    「……それで、お嬢さまは何が憂鬱なのかしら?」

     唐突な発言だった。思わずティーカップから唇を離し、ベインズ夫人を見つめてしまうほど。

     フィンの視線の先で、ベインズ夫人は紅茶を飲み、真っ直ぐな眼差しでフィンを見返してきた。
     もしかしたら、本人にしてみたら思い切った質問だったのかもしれない。その眼差しは真っ直ぐでありながら、唇はちょっと困ったようにあいまいに微笑んでいたから。

     フィンは反応に困った。

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