間章(6)

     王子アレクセイから受けた依頼は、自らに擬態し故国を解放せよ、だ。

     だがもうひとつ、頼まれたことがある。紋章だ。王子アレクセイが国を出たときから肌身離さず持ち続けていたルークス王国の紋章をやつらの手から護ってくれ、と云われた。

     なぜ、と問う暇はなかった。瀕死の状態でありながら、必死の気迫でアレクセイに頼み込んだ後、王子アレクセイは亡くなったのだから。ただ、そのときにもなぜ紋章を護れというのか、疑問に感じはした。だから魔道士ギルドを訪れた際、ギルド長に依頼して鑑定してもらったのだが、特筆すべき点はないという結果だった。ただの琥珀の塊であるという鑑定結果を得て、アレクセイは首をひねった。

     ならばなぜ、王子アレクセイはこの紋章を護れと云ったのだろう。

     そしてもうひとつ、なぜ、敵はこの紋章を欲しがるのだろう。

     接近してきた船の調査を終えて以来、アレクセイは自室でずっと考え続けている。ただ、あまりにも情報が少ないから、一向に前に進まない不毛な考えだと感じていた。ついに舌打ちしてアレクセイは椅子から立ち上がった。心の中には亡き友人への文句が渦巻いている。

    (わたしに擬態しろとは、よくも簡単に云ったものだ)

     同じ年齢、よく似た身体つきをしていたとはいえ、顔のつくりが違う。瞳の色は同じだが、髪の色は違う。そのような人間によくも擬態を頼む気になれたな、と亡き友人の心理に思いをはせていると、扉が叩かれ、セルゲイが入室してきた。振り返り、軽く眉を上げる。

    「仏頂面だな、どうした?」
    「仏頂面にもなる。おまえ、フェッルムの島の調査に加わらないでなにをしているんだ」
    「王子とはこまごまとした雑事に煩わされないものさ」

     うそぶいてみせると、セルゲイの眼差しが険をはらんだ。

     ふ、と笑って「冗談さ」と告げる。テーブルの上に置いた紋章を取り上げ、セルゲイに向かって投げた。ぱしっと危うげなく受け取ったセルゲイは、訝しげに紋章を見下ろす。

    「なあ。変だと思わないか。あいつらはその紋章を狙い、アリョーシャのやつもこれを護れと云って亡くなった。ならこの紋章になにがあるんだと思う?」
    「それを考えていたのか。ギルドの長はなにもないといっていただろう」
    「なにもない紋章を狙ったり、護れと云うのか? 納得いかないだろ」
    「ではもう一度、魔道士に訊いてみたらどうだ」

     云いながらセルゲイは紋章を放り投げる。受け取りながら、アレクセイは眉を寄せた。

    「キーラに?」
    「……いまならもうひとり魔道士もいる。だが紫衣の魔道士に訊ねるのが一番だろうな」
    「さて、どうかな」

     受け取った紋章を首から下げながら、アレクセイはあいまいに言葉を濁した。

     敵魔道士とのやり取りを聞いて、当然のことながら、キーラは疑問をいくつか抱いたようだった。だがアレクセイに追究しかけて、――――やめた。おそらく魔道士の勘が働いたのだろう。聞かないほうがいいと判断して、事実確認にとどまった。賢明である。

     だがその賢明な態度が、不思議とアレクセイを苛立ちに誘う。

     フェッルムの島の調査に加わらなかったのも、それが理由だ。いま、キーラの顔を見たくない。彼自身、理由もわからぬ苛立ちなのだ。王子らしからぬ醜態をさらさないよう、一人で引きこもっていたほうがいい。アレクセイはそう考えた。

    「おまえは本当に、彼女がからむと、らしくなくなるな」

     くく、と笑い含みの声で云われ、アレクセイは片手で顔をおおった。

    「云わないでくれ。一応、自覚しているよ。あのお嬢さんは人を振り回すのがお上手だ」
    「振り回されているのはおまえだけだ。正直になれ、気に入っているんだろう?」

     楽しそうなセルゲイに、アレクセイは呆れた眼差しを向けた。

    「それを云わせてどうする気だ?」
    「別に。ただ、安心できるだけだ」

     安心とは奇妙なことを云う。ますます眉をひそめると、セルゲイは思いがけず真面目に見つめ返してきた。

    「おまえは云ったな。すべてが終わったら、あるべきところに皆を返すと」
    「ああ」
    「そうしておまえは王になる。王子として国を解放するんだ。逃れられない展開だ」
    「そうさ」

     相槌を打ちながら、わずかに苦い気持ちが芽生えた。ふっと笑って、その気持ちをひねりつぶす。もう決めたことだ。セルゲイはさらに淡々と言葉を続けた。

    「そのとき、おまえは一人だ。だが事情を知る人間が傍にいたら、おれは安心できる」

     短くはない沈黙が芽生えた。アレクセイは唖然と口を開いて友人を見つめていた。与えられた言葉の意味を考え、アレクセイは心から表情の選択に困惑した。なにを云えばいいのか、なにを返したらいいのか。まったく浮かばないまま、口が動く。

    「おれはそんなに頼りなく見えるのか」
    「まさか。だがおまえの急所をおまえしか知らない状況を危うく感じる。おまえはチーグルに勝てない。団長にも勝てない。気力は誰にも勝っているだろうが、必ず誰かの助けを必要とするだろう。その誰かが、あの紫衣の魔道士どのでなにがいけない?」

    (セルゲイらしい心配だ)

     アレクセイは目を伏せてちいさく笑みを浮かべる。王子アレクセイ、ミハイル、そしてセルゲイ。この三人の中でだれが一番気性がやさしいかと云えば間違いなくセルゲイだとだれもが云うだろう。その通りだ。くく、とのどの奥で笑って、アレクセイは顔をあげた。

    「おれが気に入っているというより、おまえがキーラを気に入っているんじゃないか?」
    「否定はしない」

     むしろ胸を張って堂々と応えるものだから、ついにアレクセイは吹き出した。

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