だがやさしい友人の思惑通りに、物事は運ばない。
恐怖を浮かべた濃藍色の瞳を見て、だめだな、とアレクセイは感じた。
キーラは確かに紫衣の魔道士だ。だから事象に敏くて、彼の正体にも気づいた。だが同時に、普通の少女としての一面もあるから、目の前で人が斬り殺された事実へ過敏に反応している。アレクセイにおびえている。そんな反応を認めて、胸がきしんだことに我ながらひどく驚いた。
「うそだったの、全部」
(気丈なお嬢さんだ)
ふるえながら、それでも逃げ出しもしないで口を開く少女をまっすぐに見つめる。
「あなたはアレクセイ王子じゃなくて、ミハイルと云う人なの」
「いいえ」
ゆっくりと歩み寄りながら、アレクセイはいつもの仮面を身につける。
もう、ミハイルと云う青年はこの世に存在しない。してはいけない。王子アレクセイの依頼を受けた時からミハイルはアレクセイとなった。ミハイルと云う名前に執着などない。もともと捨て子だった彼に、適当に与えられた記号だ。アレクセイでも別にかまわない。
「わたしは間違いなくアレクセイですよ。一か月前、ミハイルと云う名前と共に、一人の青年が葬られたときからね」
すぐ目の前に立てば、キーラは必死な眼差しで見上げてきた。
たじろぐ自分を認識する。アレクセイにまだ怯えながら、なにかを必死で探そうとしている眼差しだ。なにを? 感傷的に彼女を見つめようとしている自分に気づいて、とっさに彼女の意識を奪った。とさり、と、あえなく倒れこんでくるキーラを支える。
「ミハイル」
「おれをその名で呼ぶなと云ったはずだ、セルゲイ」
眼差しをキーラから外さないまま、アレクセイは鋭く云い放った。そのまま斬り捨てた男を眺めて、剣呑に目を細めた。まったく、余計なことを云ってくれた。だが命を失った人間にこれ以上の憤りを向けるなど馬鹿馬鹿しい。キーラを抱え直そうとしたとき、二の腕をつかまれている状態に気づいた。意識を失う前、とっさに掴んだのだろうか。アレクセイの唇がわずかにひらく。だが結局なにも云い出さないまま、キーラを抱えて歩き出した。ふと思いついて、アレクセイはじっと立ち尽くすセルゲイを振り返った。
「魔道士の埋葬は任せる。おれは先に船に戻ってキーラを、……ああ、こちらの女も捕まえておかないとな。キリルにでもキーラを委ねた後は、引き取りに来る」
「キーラ嬢をどうする。殺すのか」
ひどく思いつめた声音に、ふっと唇をゆるめた。
「まさか。彼女を殺したらチーグルやギルドの長に殺されるよ。ただ、事態がこうなった以上、魔道封じの腕輪をはめて監禁させてもらうけどな」
「馬鹿なことを云うな。それこそ彼女の反発を招くだけだ」
「――――セルゲイ、甘い希望は捨てろ」
今度こそセルゲイと向き直って、アレクセイはきっぱりと云い放った。
「キーラの反応を見ただろ。彼女がおれの仲間になることはない。無理だ。こうなった以上、ことが終わるまで彼女を監禁するしかない。少なくとも、おれの立場が揺らぎのないものになるまでな。殺すわけにはいかないんだから、それしか方法はないだろ」
「無理を云っているのは、おまえのほうだろう」
ようやく動いたセルゲイは、毅然とした声音で告げる。
「キーラ嬢を監禁する? 生きた人間を監禁し続けることがどれほど骨か、おまえは知っていて戯言を云っているのか。この場合、秘密を保つためならばキーラ嬢を殺すべきだ。それが出来ないというなら、」
「セルゲイ」
「味方に取り込むしかないだろう」
アレクセイがあげた制止を無視して、セルゲイは最後まで云い終えた。
黒々とした瞳が、まっすぐにアレクセイを見つめている。本当に甘い希望を抱いているのはどちらだ。言葉に出さなくても、そう考えている。アレクセイは口端を持ち上げる。笑うしかない心理とは、まさしくこういう心理を云うのだ。
「たぶん」
云いながら踵を返して歩き始める。セルゲイは咎めることもせず、じっと見送った。
「団長やチーグルも同じことを云うんだろうな。だがおれには無理だ。キーラを口説き落とせる気がしない」
「キーラ嬢一人を動かせない男が、ルークス王国の解放を成せると思うのか」
苛立ちを含んだ言葉に、ぴくりとも反応できず、振り返りもしなかった。
アレクセイは舌打ちの衝動をこらえる。まったく自分はどうしてここまで弱気になっているのか。腕の中に抱えた少女をあえてかえりみなかった。キーラが理由のはずがない。だから見つめる必要もない。意地になっている自分を悟りつつ、アレクセイは船に戻った。