無意識のうちに指が動き、手首にはまったままの腕輪をなぞった。どくどくと鼓動が激しく脈打っている。震える唇を開いて、静かに呼吸を繰り返した。

 大気に満ちている力が見えない。どこから魔道が飛んでくるかもわからない状況が、キーラの精神をひるませる。こわい。だが、ここにはキーラ一人しかいないのだ。ただ怯えているだけではだめだ、と、あたりをぐるりと見渡した。人の姿はない。でも必ず誰かがいるはずだ。唇をぺろりとなめて、口を開く。

「どこのどなたか知らないけれど、用があるなら姿くらいは見せてくれないかしら。それとも魔道を封じられたとはいえ、紫衣の魔道士が怖くて仕方ないの?」
「――――僕に、あなたごときを怖がる必要なんてありませんよ、まったくね」

 高く澄んだ声が響いた。声の方向をたどると、白い簡素な服をまとった少年が木陰から現れた。まっすぐな黒髪を肩で切りそろえた少年だ。きれいな闇色の瞳を敵意にきらめかせてキーラを睨んでいる。なんだか覚えがある、と感じて、やがて気づいた。アリアと口喧嘩を繰り広げていた少年だ。水色の肩掛けをしていた姿を覚えている。

(青衣の魔道士)

 さりげなくあたりを見回した。ここは公園だ。すぐに噴水を目にしてしまって、舌打ちした。青衣の魔道士は、水属性の魔道を得意とする。この状況なら、少年は攻撃方法に困ることはない。ふ、と震えるように息を吐いた。ますます怯んでいる気持を自覚した。

「そう。それであたしに何の用かしら? さっさと帰りたいから、早めに用件を済ませてほしいのだけど」
「たいした厚顔ですね。寄り道なんていまさらでしょう。魔道士ギルドに寄り、公園に寄る余裕もある。なら、少しくらい僕に付き合ってくれてもいいんじゃありませんか?」
「あたしはあなたを知らない。だからあなたの事情に合わせなくちゃいけない理由はない」
「僕もですよ、敬愛すべき紫衣の魔道士どの。これから葬ろうという相手に、合わせなくちゃいけない理由は僕にはありません」

 そう云うなり、少年は呪文を唱え始める。さあさあとあふれていた噴水が、ぴたりと止まった。キーラは素早く樹木に向かう。ざん、と、衝撃が太い樹木にぶつかり、斜めに切られた幹がずっとずれて地面に転がる。水を刃に変えて、ぶつけてきたのだ。斬られた断面を見て、キーラは次の樹木の背後に移る。心臓が激しく音を立てている。たかが水と侮ってはいけない。水は使い方次第では、このように、なによりも凶悪な武器になるのだ。

(でも、)

 次の呪文が聞こえる。ぶわん、と大きな水の塊が飛んできたものだから、再び次の樹木に隠れた。ぱしゃ、と、水がはじける。地面にしたたり落ち、大地に染みていく。その上を走りぬけようとして、響いた呪文に足を止めた。水を粘着液に変える呪文に、慌てて向きを変える。足を固定され、集中攻撃されてはたまらない。

 ざっと樹木から飛び出て、先ほどよりも近づいた少年に向かって走り出した。短く呪文が響く。間に合わない。途中で気づいたキーラは斜めに飛んで、少年への攻撃をあきらめた。鋭く形を変えた水刃が、つっとキーラの髪を一筋、ぶつ切りにする。ついでに、ち、と頬に痛みが走った。ぬるりと垂れる生温かい感触に、ごくりと喉を動かせた。芝に膝をついて、石畳の上の少年を見る。

「この行為は、アリアもスキターリェツも承知なのかしら?」

 新たに呪文を唱えようとした少年は、ピクリと眉を反応させて詠唱を取りやめた。

「だからなんだと云うんです。云っておきますが、アリアどのやスキターリェツさまの名前を出したら攻撃をやめると考えているなら大間違いですよ」
「そんなことは考えていない。でも、あたしを始末した後、どう云い抜けるつもりなのか興味があるだけよ」
(しゃべらせろ)

 緊張に乾いた唇をぺろりと濡らしながら、キーラは少年に言葉を仕掛ける。少なくとも少年がしゃべっている間は、呪文が唱えられることはなく、攻撃が飛んでくることもない。その間に頭をめぐらせ、事態の打開策を考えるしかない。

「うぬぼれが強いですね。あなたごとき、始末したからと云ってお叱りを受けるはずがありません。ましてやスキターリェツさまの油断を誘い、アリアどのの優しさにつけこむような人です。いまは理解されなくても、いずれは褒めていただけます」
「自分に云い聞かせているの、その言葉? 勝手に暴走する部下を持って、スキターリェツも気の毒なことね」

(そうだ)

 じくじくと頬に響く傷を知覚して、キーラはひとつの策を閃いた。良策ではない。やぶれかぶれと云ってもいい。だがいまはこれしか思い当たらない。ぐっと手を握った。ゆっくりと腰を上げる。見極めろ。云い聞かせながら、少年を見つめる。

 怒りの表情を浮かべた少年は、はっきり聞き取れない罵声をつぶやいて、次の呪文を唱え始めた。適当に走り出す。水の刃が追い付いてきた。くるりと方向転換して、向かってくる水の刃を見つめる。見極める。動かそうとした片手が、ぶるりと震える。体が勝手に、予測におびえている。それでもキーラは身体の反応を抑え込んだ。視界の隅で、少年の表情がはっと変わる。邪魔されないうちに、とつぶやいて、キーラは水の刃の前に、魔道封じの腕輪をはめられた手首を差し出した。