冷気を遮断する結界は、物理的衝撃にも対応できる。だから野生動物の素早さが人間よりはるかに優れていても、怯える必要はない。

 そう云い聞かせていたが、さすがに勢いのまま虎に押し倒されたときは心臓が大きく脈打った。鋭い牙が結界のすぐ傍らで暴れる。身体全体をおおう結界越しに、鋭い爪がキーラの身体を抑え込んでいる。ごくりと喉を動かした。慎重に、慎重に。云い聞かせても、どくどくと心臓が怯えている。呼吸を繰り返して、心を鎮め、相手の虎を観察した。雌だ。

(我ながら、えぐい方法だと自覚しているけれど)

 両手を伸ばして、虎の頭に触れようとした。相手は、ぐるるう、と頭を振る。がつがつ、と爪が動く。怯えた指がさまよって、ぐっとひげをつかんだ。びくりと虎が反応する。

「猛々しく気高い、北の森の女王よ」

 芽生えた隙をついて、いつもは使用しない言葉ヴォールズに力を込めて呼びかけた。言葉ヴォールズは世界の理に働きかける。人間並みの知能を持たぬ獣でも、世界を構成する一要素である以上、言葉ヴォールズの影響から逃れることはできない。

 はたして、虎は低く唸りながらも、先ほどまでとは違う、こちらをうかがう様子で落ち着きなく、黄金色の瞳を反応させている。

「どうか慈悲を与えたまえ。我は、か弱き仔。貴女の庇護すべき存在。ただひたすらに、貴女の守護を必要とする者である!」

(お願い!)

 ひげを放して、とんがった鼻先に直に触れた。ごつごつした毛触りに、怯えを誘発される。だが動かない存在に、無理矢理、警戒を解いた。結界を解いた。大きくたくましい首筋に思いきり抱き着いた。目の前の存在は、キーラを守護する存在。自分は目の前の存在から護られるべき、か弱き獣。なによりも強く、自分自身にも云い聞かせた。

 変化はしばらくの時間をおいて現れた。やわらかく。そっと腕の中の生き物が動いた。ぶわりと獣の匂いが漂い、べたりと耳が濡れる。なめられたのだ。おそるおそる腕を解けば、さきほどまでとまるで様子を違えた虎が、いる。くるるぅ、とやわらかく鳴いて、再びべろりとなめてくる。どうやら、成功したらしい。

(よ、かった……)

 いま、キーラが用いた魔道は、野生動物を手なずける魔道である。魔道士を人間としてではなく、同族として錯覚させる魔道なのだ。この雌虎は、キーラを我が子と認識している。子を護ろうとする母親ほど、頼もしい存在はいない。絶対的な味方だ。

 魔道士ギルドに行って、情報を集める。そのように予定を決めたものの、まわりの思惑がさっぱりわからない以上、絶対的に信頼できる護り手が欲しかったのだ。ただそれだけの理由で、野生動物を傀儡にするのはいささか自分勝手である。ただ、キーラを狩りの標的にしたのは野生動物のほうだからあきらめてほしい、と主張したい。

(とりあえず子持ちなのかどうか、確認しておこう)

 大きな頭をしっかり両手に捕らえて、言葉ヴォールズで語りかければ、雌虎の意思が伝わる。

 おまえの他に子供はいない。きっぱりと断言して、雌虎は尾を揺らした。少し気が楽になった。ほうっと息をついて、キーラは背後の樹木に寄りかかる。緊張がほどけて、ゆらゆらと溶けだしそうな気持ちだ。

 と、ぺろりと雌虎になめられた。まぶたを開ければ、すぐ近くに黄金色の瞳がある。手を上げて虎の頭をなでると、やわらかく眼差しをゆるめる。かと思えば、雌虎はすぐ近くに横になり、もたれかかるようにと促してきた。慎重に確認する。雌虎にかかった術に揺らぎはない。だからキーラは素直にそのまま、雌虎にもたれかかった。むわっと毛皮の匂いが襲いかかってきたが、いまはおとなしく夜が明ける瞬間を待つことにした。