「里に戻らなければならない」
混乱したキーラに代わって、若者が明確な方針を告げる。
こめかみから指を離して見つめると、意外なほど引き締まった眼差しを向けられていた。
「きみはもちろん、きみなりの懸念を抱えているのだろうが、いつまでもここにいるわけにはいかないんだ。ぼくとしては一刻も早く、役人たちが掲げる紋章が偽物である、と里長に報告したい。事態を静観すると云う基本姿勢が間違っていた、と、お伝えして、判断を仰がなければならない」
そう云いながら、立ち上がる。結界など知らぬ気に立ち去ろうとするから、ためらって結界を解いた。
いまのところ、魔道的な干渉はない。話している間も、魔道的な探査をされている感触はなかった。違和感が強い。もしや自分は疑心暗鬼に囚われているだけなのだろうか、とすら考えてしまって、頭をぐちゃぐちゃとかき回す。若者が表情を和らげて、キーラに手のひらを差し出してきた。
「行こう。ここから人間の里まで距離がある。ならば、ぼくらの里で一休みしてもいいだろう?」
「……あたしが訪れることによって、役人たちに里の場所がわかったらどうするの?」
「抵抗するさ。おとなしく従わなければならない理由は、もうどこにもないんだからな」
若者はあっさりと云い放った。あまりにも簡潔な答えに、キーラの唇もゆるむ。
考えすぎたから動けなくなるのだ。この程度にシンプルなほうが、いっそ解決に導くのかもしれない。
差し出された手のひらに左手で触れ、キーラはぽんぽんと軽く叩いた。
「そのときはお手伝いするわ。これでもあたし、……それなりに強いから」
「ああ、よろしく頼む」
雌虎もゆったりと立ち上がり、先を歩き出した若者に続く。
ようやく得られた穏やかな時間に、ふと、さっきまでの自分を振り返る余裕が芽生えた。かなり一方的だったな、と感じる。素直な反省を招いてしまう程度には、森は静かで穏やかだった。若者との間にも会話はない。すると先ほどまでの自分を慌て過ぎていたようにも感じて、キーラはにわかに恥ずかしくなった。
(でも、いまさら謝るのも、なんだか変)
なにより、あのスキターリェツがなにも狙わないまま、キーラを放置したとはこの期に及んでも信じられないし、と考えながら、元の場所まで歩いたときだ。
ばさばさっ、と、木立が揺れる音が行く先から響いた。鳥が羽ばたく音だ。
とっさにキーラと若者は顔を合わせて、無言のまま、走り出した。雌虎が続く。
走れば走るほど、どんどん向かう先から、いやな気配が伝わってきた。空気が緊張している、そう表現するべきか。路は途中から消えうせ、視界を隠す木立をかき分けるように進む。
(、っ)
途中、ぶん、と空気にぶつかる感触がした。
(結界っ?)
同時に、音があふれた。ざわめき、どころか、剣呑な騒ぎが響いている。
キーラは振り返って、いま、潜り抜けた感触を確かめた。これまでに見たことがないほど、技巧的な結界だと感じた。まるでレース模様のように、力が細かく編まれている。直感的に精霊たちが施したものだと察した。さらに若者は先を進む。立ちふさがる緑がだんだんと薄くなる。キーラは腕を伸ばして、若者の肩をつかんだ。
「っ、なにをするっ!」
すでに若者の顔には、穏やかさなどない。焦りと苛立ちを浮かべて振り返ってきた。
「落ち着いて。なにが起こっているのか、慎重に確かめましょう」
「そんなことを云っている場合か!」
「敵がいるのなら、不意打ちしたほうがいいわ。云ったでしょう、手伝うって!」
強く云いながら、キーラも焦りを覚えている。なにが起こっているのか、さっぱりわからない。
わからないが、何の準備もしないまま、飛び出していく行為は危険だと感じた。若者は「くっ」とうめき、動きを止める。呼吸を深く繰り返して、いまさらかもしれないが、そっと緑の合間から行き先をうかがった。キーラも慎重に覗き込む。
まず目に入ったのは、地面に座り込んでいる人々の姿だった。
その姿を見て、キーラは眉を寄せる。精霊らしき人々は、隣にいる若者とはあきらかに違う特徴を備えていたのだ。肌の色は浅黒く、髪は濃淡あれど緑色。なにより耳の形が違う。長くとんがっていて、まるでレプスのようだ。
(これが、精霊?)
初めて、精霊と呼ばれている種族を見て、キーラは悟られないよう隣を見た。
ならば隣にいる若者は、間違いなく精霊ではない。おそらく混血でもないだろう。なぜなら精霊たちの特徴を何一つ兼ね備えていない。赤い髪に白い肌、短い耳。どれだけ見直しても、人間にしか見えない。