暴走。衝撃的な単語である。
沈黙したキーラは唇に指を当てて考え込んだ。なるほど、納得できる。キーラと雌虎の意識がつながっているから、雌虎が妙に人間じみた行動するのだ。ぽんぽんと見上げてくる雌虎の頭を叩き、苦笑を浮かべて里長を見つめた。
「つまり、精神的な暴走、と云うわけですね。わかりやすく云うならば、血に酔いやすい?」
「あるいは、怒りや恐怖で我を忘れる可能性だ。精神に引きずられ、無意識に集めた力が荒ぶる可能性もあるやもしれぬな。たとえば先ほどのそなたのように」
辛辣な響きで里長が告げたが、キーラはきっぱりと首を横に振った。
「暴走の可能性を否定しません。ですが先ほどの行為は、野生動物の気性とやらに引きずられた結果ではありません。ただ、あたしが戦闘に怯んで、楽な方法を選んだだけです」
雌虎と意識がつながっていたから、敵とみなした相手に対して、手加減ができなかった。
そんな言い訳をするつもりはない。
キーラは紫衣の魔道士なのだ。世界に十三名しか存在しない、最高位の魔道士である。
魔道士の頂点たるキーラが、たかが獣にかけた魔道に引きずられて自失した、と言い訳していいはずがないだろう。あいまいに責任から逃れてはならない。カフェを経営したいと魔道士ギルドを出ている身だが、そのくらいの倫理は叩き込まれている。
「精神論は嫌いですが、……抑えます。いまは暴走していいときじゃありませんから」
「奇遇だな、我も精神論は嫌いだ。ゆえに、不安要素としてスィンをそなたにつける」
キーラは目を見開いた。
仕掛けを壊し精霊をムジャンと共に解放したのだ。スィンは弱くない。だが、魔道的防御はできない。たとえキーラが暴走しても、スィンは対抗できない。
つまり里長は、スィンを傷つけることないよう自制せよ、と云っているのだ。大胆な考えだ。仮にも息子と呼んだ存在に対して、なかなか手厳しい論理でもある。
(んー。あるいは、息子と呼んだ存在だから、なのかしら?)
経験がないキーラには、男親の心理などさっぱりわからない。だからこっそり首をかしげたが、続く里長の言葉に目を見開いた。
「そなたをスィンに利用させる対価として、『結界』とやらの解除方法を教えよう」
驚いたのは、キーラだけではない。拘束されていた魔道士たちが反応する。唸るように声をあげた。明確な言葉になっていなかったが、里長への抗議は伝わってきた。里長はちらりと魔道士たちを見たが、彼らに対してなにも云わない。キーラは微笑んだ。
「スィンがあたしを利用するのですか? あたしがスィンを利用するのではなく?」
「人間の魔道士として、そなたは先祖帰りかと思われるほど、魔道に長けている。いささか異様なほどな。だからこそ、人間たちの組合でも地位を得ているのではないか」
「なるほど。……スィンの身元保証人になれ、とおっしゃるのですね?」
「海の獣は海に。森の獣は森に。ならば街の獣は街にあるべきだ」
きっぱりと云い放ち、だが、次の瞬間、里長はやわらかく微笑んだ。
キーラに向けた微笑ではない。ここにはいない、里長が息子と呼んだ存在に向けた、慈愛の表情だ。せっかくの表情だが、見せる対象を間違っている、とキーラは肩をすくめる。
そういえばスィンはどうしただろう。まだ衝撃を受けたままだろうか。
ムジャンがついているだろうが、そろそろキーラも気になってきた。ムジャンは、皆がそれぞれ、移動準備を始めたと云っていた。それでは、ムジャンも移動準備しないといけないのではないか。
キーラがそう云うと、里長は鷹揚にうなずいた。
「ではスィンの子守も、そなたへ依頼しよう。あれはおそらく、我が家の裏庭にいる。案内するゆえ、ついてくるがいい」
云うなり里長はゆったりと歩き出した。魔道士や剣士たちはそのまま放置している。拘束魔道をかけているとはいえ、つくづく思い切った行動をする精霊である。わずかな時間に、精霊へ抱いていた印象が、がらがらと変わっていく。正直に云えば、夢が破れた。
(そもそも、精霊と云う種族名が間違っているのよね)
すべてが終わった後、魔道士ギルドに改名を申し出てみようか。彼らの特徴を捉えた名前がわかりやすくていい。緑、琥珀、森、耳。慌ただしく移動する精霊たちとすれ違いながら、キーラはうん、と頷いた。
アウリス。わかりやすくて、なかなかいい種族名なのではないか?