父親の洞察力は侮れない。スィンは確かに、里長宅の裏庭にいた。

 大きな樹木の根元に、幹を背もたれにして空を仰いでいる。離れた場所からムジャンがスィンを見守っていたが、里長(と、ついでにキーラ)に気づくと、一礼して立ち去った。いまから移動準備に向かうのだろう。間に合うといいけど、と、頭の隅で考えながら、キーラは雌虎と共に、さくさくとスィンに近づいた。とっくにこちらに気づいているだろうに、スィンは視線を向けてこない。

「なに、拗ねてるの」
「拗ねてなど、いない」

 聞き流せないだろう言葉を選んで話しかければ、むっとした様子ですぐに応える。

 そのくせ、動き出そうとしないのだ。キーラは苦笑した。里長は子守と告げたが、まさしくその通りだ。少し離れた場所まで近づいて、スィンがもたれている樹を見上げた。

 立派な枝ぶりだ。どれだけ年を重ねた樹木なのだろう。

 そう考えながら沈黙していると、ぼそっとしたスィンのつぶやきが聞こえた。

「ぼくは、皆の仲間になりたかったんだ」

 切実な響きに反応して、樹木からスィンに視線を移す。なにせ相手は座り込んでいるものだから、位置的に赤い髪を見つめる羽目になる。どう見ても、精霊たちとは異なる髪の色、人間でしかありえない色だ。里長も罪なことをする、と感じた。安心させるため、と云う理由であっても、精神的に落ち着いたら、自分がまわりと違う事実に、嘘をつかれた事実に気付かざるを得ない。

「森の恵みを感謝し、精霊王を感じながら、穏やかに生活する。皆が、うらやましかった。ぼくは、そのような存在ではいられないから」

 スィンはちらっと苦み走った笑みを浮かべた。ようやくキーラを見上げて、「ぼくの話を聞いたか」と確認してくる。短く頷けば、再び、空に視線を移した。

「なにもかも忘れているが、ぼんやりと夜に見る夢を覚えている。ぼくには大切な使命があった。おそるべき災いに立ち向かわなければならない。だがぼくは負けてしまった。すべてを失ってしまった。大切な友との約束だったのに、と悔やむ気持ちははっきりとしていて、強くこみあげてくる。だからこそ、このままではいられないことも理解していた。ぼくはいずれ出て行かなければならない。わかっていたんだ、里長に云われなくとも」

 きみが恨めしいよ、と、かすれそうな声で続ける。

 キーラはただ、黙ってスィンを見つめた。ふと、スィンは何歳ぐらいなんだろう、と考える。もし彼の正体が推測していた通りなら、十年前にはすでに成人していたはずだ。だから少なくとも自分より年上だろうが、いまのスィンはまるで年下の少年だ。頼りない。

「駄々っ子ね」

 偉そうに云える立場ではないが、率直に感じたままを告げた。

 スィンは「ああ」とため息のように答える。本当に気付いていないのか、と嘆息しそうな気持ちを堪えて、キーラはさらに言葉を続けた。

「精霊たちの仲間になりたい、だなんて、あなたはとっくになっているじゃない」

 はじかれたように、スィンがキーラを見た。

 あえて視線を合わせてやらない。他に視線を向けて、いくつかの事実を示す。

 さきほどから裏庭の垣根越しに、ちらちらと気遣わしげな眼差しを感じ取っていた。すべてスィンに向けられたものだ。さきほどまでここにいたムジャン、間違いなく非常時であるいまに、自分の準備を先送りにしていた理由は、スィンが気がかりだったからだ。いま、里長が離れた位置からこちらを眺めている理由も、ムジャンと同様だろう。

 これだけ気遣われている事実に、当の本人が気づいていない。

 少しずつ、スィンの表情が驚きに染まっていく。

 なんてことだ、と、キーラは呆れている。だが、そんなものかもしれない。希望はすでに叶っているのに、当人だけが気づかないものなのかも。ちらりと自分自身について考えた。キーラが抱える、本当・・の望みもすでに叶っているのかもしれない、と。だがいまは、スィンだ。

「あなたは確かに人間よ。精霊じゃない。でも、身内として受け入れられている。とうに叶っていた願いから目をそらして、自分の気持ちだけ見ていたいの?」

 ふ、と、あえて皮肉に笑って見せた。

「だったらいつまでもそうしていたらいいわ。滑稽だと感じるけど、あなたがそうしていたいならそうしたらいい。あたしを恨んで気が済むなら、好きなだけ恨めばいい。里長はあなたと行動を共に、とおっしゃったけど、正直なとこ、知ったことか、と云う気持ちよ」
「……本当に、きみが恨めしいよ。どうしてぼくはきみを拾ったんだろう」

 スィンは立ち上がり、ぼやくように告げた。聞きとがめて、キーラはむっと唇を結ぶ。よりにもよって、なんという表現をするのだ。

「ちょっと。あたしはあなたに拾われた記憶はないわよ」
「行き先を見失っていたんだろ? なら、間違っていないじゃないか」

(たしかに、現在位置を理解していなかったけど、でも!)

 なんだか納得いかない。そう思いながらスィンを睨みあげ、あれ、とキーラは気づいた。

 スィンの瞳は、温かな印象の茶褐色だ。奇妙に、里長たちと似ていると感じた。

 なぜか考えて、ああ、と納得した。里長の元に向かおうとしたスィンが、不思議そうに振り返る。キーラはにんまり笑った。せっかく気づいた事実だが、当分黙っていよう。

 スィンの瞳は温かな大地の色だ。

 偶然に過ぎないが、それだけは精霊たちと同じなのだと、本人はまだ気づいていない。