スィンが承知したため、魔道を行うための準備を整えていく。
雌虎レジーナに魔道をかけたときは、なにせ状況が切迫していたし相手が畜生だったから、さほど気を遣わなかった。だが今回、魔道をかける相手は人間なのだ。重大な悪影響が残っては大変だし、また、肝心の情報が探り出せないようでは困る。だからこそ、ギルド長が指示するまま、キーラたちは動いた。
まず、続き部屋があるギルド長の部屋に移動した。遮光幕を閉じ、部屋を暗くする。魔道を行使する二人は、ほぼ意識を失った状態になるため、家具を移動させ、中央に寝台にかけられていた布を拡げる。さらに集中しやすくなるよう、ギルド長が防音結界を張った。
スィンは開き直ったようで、ギルド長に云われるまま、布の上に横たわった。
キーラにもギルド長の指示が飛び、少しだけ羞恥を覚えながら、スィンの隣に横たわる。静かに呼吸を繰り返し、気持ちを鎮める。そっと動いて、スィンの左手をつかんだ。びくっと反応したスィンに、「そのまま」と話しかける。
「静かにしていてね。呼吸を大きく繰り返して。身体の力を抜いて」
「む、難しいな」
「うーん、と。そうね。眠りに入ると考えていいわ。目を閉じて、ゆっくり呼吸して」
「ぼくは眠るとき、手をつないでもらう習慣はないぞ」
「あたしもよ。だから、そのままでいいの」
魔道をかける立場上、指導する物云いをしたが、スィンが感じているだろう気恥ずかしさを理解できるキーラである。そっと目を動かして、部屋の入口に立っているギルド長を見た。薄闇で、ギルド長は静かに頷く。ヘルムートは完全に、気配を断っているようだ。
「浮かぶ思考を否定しないで。なにを考えてもいいから、するする受け流す感覚でいて」
「ん、むう」
スィンはさらに小さくうめく。このまま手こずるかと考えたが、まもなくスィンの呼吸は落ち着いた様子を見せた。深く、静かに。
いま、伝えた内容は、魔道士としての基本である。記憶と云う情報は、決して消えない。だから過去、スィンが魔道士として過ごした、肉体の記憶が働きだしたのかもしれなかった。
(さて、そろそろいきますか)
完全にまぶたを閉じて、キーラもすぐに呼吸を鎮めた。右手にあった、他人の温もりは、もはや同じ温度になっている。覚えていた羞恥もさらりと受け流し、魔道士としての意識で口を開いた。世界に宣誓する心地で、考えた言葉をつむぐ。
「循環を続ける大いなる流れよ。ちいさき我が言葉を聞きたまえ」
世界とはすなわち自分自身。大いなる流れを構成する、ほんの一部分に呼びかける。
キーラ・エーリン。そしていまはスィンと呼ばれるロジオン・ヴェセローフの肉体に。
「我らが求めるは、積み重ねられた瞬間。時間と空間と物質とが織りなす、諸々の歴史」
ふたつの肉体、ふたつの物質は、言葉の呼びかけに応える。宿っている意識に働きかける。扉を開こうとする。境目をあいまいにしようとする。
たしかな魔道の手ごたえを覚える意識は、さらに広がり存在を薄くさせる。最後の言葉をつむぐ物質の一部分は、魔道士としての反射で動いているに過ぎない。
「我らに示したまえ。ささやきたまえ。卑小であり偉大である、永遠の刹那を」
身体が完全に弛緩し、意識も途絶えようとする瞬間、彼女はふと、音を聴いた。
若い男性と老人がつむぐ音だ。
ささやきのような、かすけき空気の振動。
なにも考えず、なにも感じず。ただ、呼びかけに応えて与えられた情報として受け取る。
「ニコライどの。だから彼女を、紫衣の魔道士にしたのか」
「いいや。わしはただ、理由を与えたかっただけよ。存在など許されぬ、そう頑なに繰り返す、かわいい孫娘にな――――」
なにも考えず、なにも伝わらず。ぽしゅん、と、彼女の意識は暗転した。