それでは資格を活用しましょう (13)

     あたしの心に、唐突に飛び込んできた。

     初めてだったから。これほどあざやかに飛び込んできた人はいままでいなかったから。

     気にかけてしまう理由は、だからきっとそれだけ。

         *

    (あーあ)

     あちこち駆けずり回って、見つけた教科書は中庭にあった。中庭にある、池の中だ。

     ぷかぷかと池に浮いている教科書は、ギルドから貸与された書物である。だからこそ大切に扱わなければならないのだが、この始末だ。担当教官ががみがみと叱りつけてくる様子をまざまざと想像して、キーラはため息をついた。誰の仕業か、大人げない行為をする。

    「ああ、あなたがいやがらせの標的でしたか」

     そのときだ。ずいぶん丁寧な言葉遣いで、話しかけられた。

     驚きながら振り向くと、見慣れない少年が立っていた。金茶色の髪に、午後の光がやわらかな輪を作っている。ギルドの子供じゃない。すぐに判断して、キーラは眉を寄せた。

    「あなた、だれ」
    「ただの通りすがりです、お気になさらず」

     気になるわよ、と心の中で呟いて、そのときのキーラは目を細めた。

         *

     少年はそれから、気まぐれのようにたびたび、現れた。

     決まって、キーラが一人でいるときだ。それもきまりが悪いことに、いやがらせを受けたあとが多い。ひとこと、ふたこと、言葉を投げかけ、去っていく。なにを考えているのか。そう考える瞬間もあったが、キーラは気にしなかった。特に、興味もない。

    「莫迦ですね。いつまでも反撃しないままなら、いやがらせはずっと続きますよ?」

     あるとき、少年はけろりとした様子で云った。

     少しムッとしながら、キーラはそっぽを向いた。そもそもこの少年、いやがらせの後片付けをするキーラを手伝おうとしない。助けようとしない。期待などしていなかったが、目の前であっけらかんとされたら、神経に触る瞬間だってあるのだ。

    「どうして反撃しないといけないの? あたしは強いのに」

     きょとん、と少年は目を丸くする。珍しいな、と感じながら、口を動かす。

    「それに、いやがらせの理由だってわかってるもの。しかた、ないもの」
    (……罰なんだから)

     微妙に少年から目をそらしながら応えると、ふん、と少年は鼻で笑った。

    「莫迦ですね。だからいいように扱われるんですよ」

     ぼくのいた世界では、と、少年は言葉を続ける。

    「少しでも侮られたら終わりです。包囲網を敷かれ、ゆるゆると破滅の道をたどる。世界は決してやさしくないんですよ」
    「だからって、弱いものいじめするのはどうかと思う」

     唇を結んだままキーラが反論したら、少年は奇妙な表情をさらした。

    「弱いもの、いじめ、ですか」
    「あたし、強いのよ。じいさまがそう云ってたわ。だからこのくらい、なんでもない。なんとかしようとも思わない。だって、実際に、なんともないもの」

     つい、と見下ろして、自分の小さな手を見つめる。

    「傷ついてない。傷つけるほうが、ずっとこわいもの」

     沈黙がおりた。やがて、ふう、と、少年はため息をついて、つぶやくように告げる。

    「でも、反撃しておいたほうがいいと思いますけどね。あなたのためではなく、彼らのために」

         *

     少年の言葉は当たった。

     いやがらせはどんどんエスカレートし、ついに、ギルド長の知るところになったのだ。

     彼らは罰せられた。ひいきなどではない。ただ、彼らの行為は、魔道士としてふさわしからぬ、という判断を下したのだ。

     ギルド長は目を細めて云った。なぜ、途中で訴えなかったのか、彼らを止めてやらなかったのか、と。答えられずに黙っていたら、ばかもの、と叱責された。

     それは不思議なほど、少年の言葉と重なる響きで。

         *

    「あなた、じいさまの知り合い?」

     その日、現れた少年に、キーラは覚えていた疑問をぶつけた。

     ひょい、と、面白がるように、少年は眉を上げる。

    「なぜ?」
    「……なんとなく」

     口ごもって、キーラはうつむいた。理由はわかってる。だってあなた、じいさまと同じことを云ってる。云い返したかったが、なんとなく莫迦にされそうだから黙っていた。そういう少年だし。「さあね」、と少年は肩をすくめた。それより、と話題を変える。

    「だから云ったでしょう。反撃したほうが、彼らのためだと」

     ぐっと言葉につまれば、少年はとうとうと続ける。

    「いやがらせをされて、思い知らせないなんてナンセンスです。彼らは自業自得ですが、あなたも追い詰めた原因ですよ」
    「……だって、」

     容赦ない言葉に、ぷつん、と我慢の糸が切れた。

    「だって、簡単に死んじゃうじゃない!」

     一度叫べば、次から次へと溜めていた言葉があふれだす。

    「弱いくせに、って、何度も思った。あたしを知らないくせに、って何度も考えた。考えちゃいけない、って思ったけど、それでも考えずにはいられなかった。でもそれが? あのひとたちの心を変える、何の役に立つの。あの人たちだって、すぐに死ぬのに!」
    「……莫迦ですねえ。本物です、感服します」

     心の底から、呆れきったように少年は告げた。

    「だれが殺せと云いました? だれが攻撃しろ、と云いましたか」
    「云われてない! け、ど……」

     反射のように叫んで、はっとキーラは気づいた。少年はにやりと笑う。

    「そうですよ。だれもそんなことは云っていない。反撃しろと云いましたが、方法はいろいろありますよね? たとえば荷物にカエルの卵を突っ込んでやるとか。ぼくは協力しようと待ち構えていたのに、なぜ、あなたはそんな方法を思いつかなかったんですか?」

         *

     いろいろと思うことはある。それでも認めよう、自分が根暗だったと。

         *

    「マーネに行きます」

     いつものように現れた少年は、にっこり笑って告げた。

     きょとん、と、少年を見つめ、キーラは困惑しながら「ああ、そう」と応えた。

     マーネ。ああ、遠い場所だ、とぼんやり考えた。少年はにやりと笑いかえる。

    「さびしいですか?」
    「別に」

     心から正直に告げると、「そうですよねえ」と少年は笑う。からからと楽しそうに笑うから、ますます困った。この少年、もしかしなくてもとても図太い、と思う瞬間だ。

    「いつか会えますかね? そのころには、あなたももう少し賢くなってほしいものですが」
    「どういう意味よ」
    「自らの手が、攻撃のためだけにある、と思い込んでいる時点で賢くないです」

     ぐ、と、言葉につまれば、にやりと少年は笑う。

    「他にもできることはある。気に食わないやつにいやがらせをしたり、美味しいものを食べたり、楽しく楽器を演奏したり、好きな人に紅茶を淹れたり。ま、脳みそ筋肉なあなたには難しいかもしれませんが」

     はっ、と斜めに笑いながら云うものだから、キーラはカチンと叫んでいた。

    「出来るわよ!」
    「は?」
    「あなたが云った、すべて。あたしにだってできるんだから。いつか会えたら、とっておきの紅茶でもてなしてやるわっ」
    「ははあ。つまりぼくが好きだと?」
    「断じてちがう。気に食わないやつへのいやがらせよ。ぎゃふんと云わせてやるんだから、覚えていなさい!」

     大声で叫び終えて、ふっとキーラは気づいた。そういえば、と、考える。

     楽しそうに笑う少年を眺めながら、彼の前でならどうしてこんなにぼろぼろ言葉がこぼれていくんだろう、と。

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