資格が無効になる日 (10)

    (あ、流れ星)

     与えられた部屋に戻ったが、なかなか眠れなかった。

     ついにキーラは、もぞもぞ起き上がり、そっと部屋を出た。喉の渇きも覚えていたから、水を飲みに行こうと考えたのだ。そう云えば、前にもこんな夜がなかったっけ。なにげなく考えて、素直ではない少女を思い出していた。ひっそりわらいながら、廊下に出れば、遮光幕のない窓から夜空が見えた。

     つ、と星が流れていった。次々と流れていく。しばらく眺めて、やがて歩き始めた。

     目的地まであとわずか、と云うところだ。キーラは厨房から出てくる人に気づいた。だれだろう、と、目を細めた。向こうもキーラに気づいたようである。

    「きみも、眠れないのかい」
    「スキターリェツ?」
    「前に云わなかったっけ? キョウ、と呼んでくれてもいいよって」
    (そういえば、そんなこともいわれたっけ)

     すっかり忘れていた事実を思い出しながら厨房に入り込んで、水甕からひしゃくで水をすくう。器に注いで、くい、と飲んだ。スキターリェツは動かない。最低限の灯りしかないからよくわからないが、じっとキーラを眺めているようだ。ふ、と息をついた。

    「なにか話があるの、スキターリェツ」
    「だからキョウだって。――――きみは、魔道ギルドの長とどういう関係なんだい?」
    「いろいろよ。養い親と孤児、師匠と弟子、上司と部下。どれでも正しいわ」
    「ふぅん。だから、ああいう命令にもあっさりと頷くのかい?」
    「あなたが気にすることじゃないわ。正確に云うなら、よりにもよって、あなたが、ね」

     軽く肩をすくめて、キーラは云った。半ば予想していた問いかけだから動揺はない。なにより、災いをおとなしくさせるため魔道の力を持った存在を犠牲にしている人間が、ルークス王国に存在する魔道士すべて滅ぼせ、と云う命令を気にかけるなど、おかしな話だ。

    「うん。でも僕ってば好奇心旺盛だから。出来るのかなって疑問なんだよ。なにせきみは、」
    「『普通の女の子だから?』」

     かつて云われた言葉を口にしたら、「うん」と云いながらスキターリェツは近づいてきた。

     薄闇のなかで、異世界から訪れた青年はキーラを見下ろしている。細い身体つきの、中性的な容貌の青年だが、それでもキーラより身長が高いのだ、と初めて認識した。

     だからといって、どうということはない。そもそもキーラは小柄なほうであるし、見下ろされるのは珍しくないのだ。それより、いつまでこの話をするつもりだろう、と考えた。

     なんというか、傍若無人なスキターリェツが、この話題に触れてくる事実が、心底、意外だ。あるいはなけなしの、仲間意識のなせる技なのだろうか。会議室でも、椅子をぶっ倒すほど驚いていたみたいだし、と考え、もう一人、とても驚いていた人物も思い出した。

    (そういえば王子さまも椅子、ぶっ倒していたわね)

     いつものうさんくさい、腹黒王子の仮面がはがれて、鋭い表情を浮かべていた。
     なんだかおかしい。ちいさく笑うと、スキターリェツはちょっと首をかしげて、さらに指を伸ばして、キーラの頬をむにっとつかんだ。やわらかな力だったが、困惑はする。

    「にゃに?」
    「気づいているかな、キーラ。いまのきみ、ずいぶん攻撃的になってるよ。いつもよりずっと、つんつんだ。かわいくないよ?」
    (ほっといて)

     頬をつかまれたままだから、乱れた言葉しかつむげない。だから主張を眼差しに込めて、じっとり睨んでやった。かわいくない? それがどうした、すでに知っている。

    「わかってないなあ。もっともそれは、僕に云わせたら魔道ギルドの長もそうなんだけど。どうしてきみに、魔道士を滅ぼせ、なんて命令するんだろうね? いちばんふさわしくない人物に、いちばんまずい命令を下して、……失敗なんて目に見えてるだろ」
    (しかたないでしょ)

     がし、とスキターリェツの両手をつかんで、ばり、と頬から引き離した。
     前々から思っていたことだが、この男、どうにも接触が多くないか。何のためらいもなしに婦女子の頬に触れるとはなにごと、ともやもやしながら、溜息交じりに口を開いた。

    「紫衣の魔道士は、いま、あたし以外にいないんだもの」
    「ギルド長は? 彼も紫衣なんだろ」
    「昔ならともかく、いまのじいさまじゃね。あれでも八十歳超えの年寄りなのよ?」

     おそるべきじじいである。見た目も行動力も六十歳代のチーグルと変わらない。
     ただ、ギルド長の片腕、シュバルツによれば、季節が変わる時期など、体調を崩して寝込むようだ。――――だからシュバルツに、夢を諦めてくれ、としばしば懇願されていた。

    「なんだ、それじゃ紫衣と云ったって、役立たずじゃないか。なんでルークスに来てるの?」
    「じいさまだもの。それと、他の紫衣の魔道士は来なかったんじゃなくて、来られなかったんだと思うわよ。時間的な問題もあるし、なによりみんな、忙しいの」

     だからかー、と、スキターリェツはのほほんと合いの手を打った。
     なにげない調子だったが、微妙な違和感を覚えた。会話の流れから自然な相槌だったが、感覚に訴えるものがある。疑わしげにスキターリェツを見あげると、彼はちらっと笑った。

    「繰り返しになるけど、きみは普通の女の子だから、人を殺せないと思う」
    「……うるさいわよ」
    「ああ、自覚してるんだ? だから攻撃的になるなんて、まるで子供だね」
    「……。……あなた、あたしを挑発して怒らせて、どういう結論に導きたいの?」

     揺らぎ始めた感情を鎮めて、スキターリェツを睨んだ。いいかげん、相手の思惑は理解できていた。キーラの指摘に驚いたらしい青年は、目を丸くしたあと、にっこり笑った。

    「きみはおとなしく控えていろ。紫衣が理由ならそんな地位、返上しちまえってとこかな」

     あっけらかんと云われて、キーラは嘆息した。

    「簡単に云わないで。できるわけないじゃない、そんなこと」
    「どうしてできない? きみの夢は、喫茶店を経営することなんだろ?」

     紫衣の魔道士であり続けることじゃない、と続けられて、唇を噛んだ。
     それはもう、途絶えてしまった夢だ。マーネに喫茶店を開いて、あの子との再会を待ち続ける。それはもう、叶わない。だからキーラは、紫衣の魔道士に徹すると決めたのだ。

     だからルークス王国の魔道士は滅ぼす。素直ではない少女を思い出せば揺らぐ気持ちはあるけれど、紫衣の魔道士に課せられた命令なのだ。義務から逃れるわけにはいかない。

     なにより、紫衣の魔道士であり続けると昔に選択したのは、キーラなのだ。

     それなのに、きみは頑なに過ぎるよ、と続ける声はしみじみと温かく、キーラを揺らす。

    「ひとつしか解決策はないと思い込んでいる。ギルド長の命令が絶対だと思い込んでいる。あのじいさんが示した解決策は、あくまでも、あのじいさんが生きてきた時代を反映した解決策だ。きみにはきみの、まったく異なる解決策を見つけられるんじゃないのかい」
    「……。あなた、云ってることがめちゃくちゃだわ。あたしをおとなしくさせたいの、それとも、じいさまに刃向えって云ってるの」

     奇妙に、泣き出したい衝動が芽生えた。

     眉をきゅっと寄せて、潤み始めた瞳をまたたいて、水分を散らした。スキターリェツは微笑んだ。よしよし、と云いながらキーラの頭のてっぺんを撫でる。夜の空気に冷えた手のひらの感触が、緊張していた意識を解きほぐそうとする。

    「きみにとっての、いちばんを探してくれ、って云いたいのさ」
    「おせっかいね」
    「――――僕はシスコンだったんだよ。きみと会うまで、忘れていたけどね」
    (しすこん?)

     初めて聞く単語に首をかしげたが、スキターリェツは微笑むだけでなにも云わない。

     ただ、薄らぐなどありえない痛みが伝わった。どうしようもない哀しみが伝わった。

     閃いた行動は、正しいのかどうか、わからなかった。

     相手はいろいろ企んでいる、いろいろ残酷な行為もしている人物だ。なにより、アレクセイの敵だ。だが、それでも手を伸ばした。少し背伸びして、スキターリェツの頭を撫でる。さらさらした髪に触れたのは指先だけだったけど、青年はくすぐったそうに笑う。

    「ありがとう」

     少し照れたように告げて、やや性急な動きで踵を返した。振り向かないまま「おやすみ」と云い残して、厨房を去る。去り際、ちょっと動きを止めたが、なにも云わないままだ。

     器を簡単に洗って、キーラも部屋に戻ろうとして、ぎくりと動きを止めた。厨房の扉、開け放たれていた扉の隣に、いつのまにか、アレクセイがいた。壁にもたれかかっている。

     黙ったままキーラを眺めて、身体を起こして踵を返した。いつからいたのだろう、水が欲しかったのではないか。なにも云わなかったアレクセイに困惑したキーラは、向けられていた眼差しに想いを馳せた。

     夜目にもあざやかだった緑色の瞳は、いったい、なにを語っていたのだろう。

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