キーラが魔道能力を失った日の出来事だ。唐突に現れた第一位王位継承者を、王宮を管理していた侍従長は、恭しい態度で出迎えた。なにぶん、失われていた王位継承者の証を持っていたことだし、仮にも王族と名乗る存在を疎かに扱うわけにはいかないからだ。

 ただ、魔道士たちがあらかじめ、アレクセイを偽者だと主張していたから、侍従長はアレクセイ王子の私室を使って、アレクセイだと名乗る青年の反応を確かめた。

 つまり、丁重に迎えながら、アレクセイを部屋に案内しなかったのである。

 かつて暮らしていたのだから、部屋の位置はわかるだろうと云わんばかりに、「当時のまま、部屋を整えさせていただいております」とだけ告げた。戸惑う『灰虎』の面々をよそに、アレクセイ王子は堂々と自分の部屋に向かい、変わらぬ内装を喜び、なによりも大切にしていた硝子製の置物を懐かしんだ。傍に控え、じっと青年を観察していた侍従長を振り返り、「他国に留学するという夢は叶わないままでしたが、このような帆船に乗って、わたしは各国に回っていたのですよ」と打ち明けた。

 戸惑い、もしや本物では、と動揺している侍従長に対してさらに、「ところで東側の壁は修復したのですか。当時のままであれば、安心してお忍びに行けるのですが」と続けた。

 硝子製の置物、東側の壁からお忍びで出かけていた過去。いずれもアレクセイ王子だから云える言葉だ、と判断した侍従長はようやく緊張をほどき、アレクセイ王子と名乗る青年を本物だと確信した、と云う次第である。そのときから、『灰虎』も王宮の客人となった。

 ――――もちろん、アレクセイが偽物王子である事実に、変わりはない。

 ただ、アレクセイはあらかじめ、この事態を想定していた、と云うだけである。王宮の間取りをスキターリェツに確認し、部屋の内装や当時大切にしていたものに関する情報はロジオンから入手し、さらに亡き親友から聞いていた情報を、効果的に活用したわけだ。

(ホント、したたかな『王子さま』よね)

 ぺろりとピラスキーを食べ、シェーリチの塩漬けを食べ、クヴァースを飲む。
 黙々とした食事だったが、気にしないように努めた。やがてきれいに食べ終え、「ごちそうさまでした」と告げてアレクセイはソファから立ち上がる。いまの言葉を料理人に伝えてくれ、と云うことかな、と考える。精魂込めて作った料理が、ようやくきれいに片付いたのだ。きっと喜ぶだろうなと考えながら、キーラはついでに、と口を開いた。

「そうだ、王子さま。ちょっとお願いがあるんだけど」
「お願い、ですか?」

 意外そうな表情で、わりとあっさりアレクセイは振り返った。すみやかな反応がさらに嬉しくて、キーラはにこやかに、昼間、ロジオンたちと話した内容を伝えた。すなわち、災いに関する資料を探したいから神殿への紹介状を書いてほしいとお願いしたのだ。

「もちろん、王子さまの手をわずらわせるような迷惑行為はしないわ。神官たちの注意にも従う。だから、」
「だめです」

 パンと手を合わせて、「お願い」と云おうとしたときだ。バッサリと切り捨てるような声音で、アレクセイは云い放った。手を合わせたまま、「は?」と見上げると、どこか苛立たしそうな声音で、アレクセイは続けた。

「あなたは、……いまのあなたは紫衣の魔道士ではありません。ですから災いに関して煩う必要もありません。余計なところに気を回さないでください」
「余計なところって、」

 弾んでいた気持ちが、たちまちしぼむ。  云われたくない言葉を云われた衝撃が、じわじわと遅れてやってくる。紫衣の魔道士ではないから、と、確かに聞いた。呼吸を繰り返して心を鎮め、キーラは反論をつむぐ。

「たしかにあたしはもう、紫衣の魔道士じゃない。でもだからこそ、災いはあたしにとって無害な存在なのよ? もう喰われる余地はないもの。だから、だからあたしはね、」
「……キーラ、もういいですから、あなたはマーネにお帰りなさい」

 冷たいところなどどこにも見当たらない、むしろアレクセイには珍しい、温かな声音で云われた。前にも聞いた声だ、と考えて、すぐに思い出した。船のなか、泣き出しそうになっていたキーラにかけられたアレクセイの声だ。思い出すと、かっと感情が波打った。

「莫迦なこと、云わないでよっ」

 気が付けば大きな声で叫んでいた。

 部屋の外にも聞こえるだろう。意識の隅っこで気付いていたが、言葉を止めようとは思わなかった。だってアレクセイは勝手だ。ここまでキーラを振り回しておきながら、と考えながら、そう考えている自分が悔しくて唇を噛む。なにを勘違いしているんだろう、と自分自身で同時に追究している。なぜならアレクセイとキーラの関係とは、魔道能力が介した、契約関係だ。魔道による助力が出来なくなったのだから、アレクセイの言は正しい。

(でも!)

 もどかしい気持ちが、キーラのなかで爆発している。

 どうしてアレクセイはこうなの、とだれかに訴えたい。どうしてなんでも先回りして、一人で立とうとするの。差し出した手を拒むの。でもそうして訴えたところで、共感を得られたところで、きっと空しいばかりだ。

 なぜならアレクセイは自分を変えようとしない。なにもかも自覚しているから、一人でなにもかも、解決しようとする。いまも、さらっとした表情でキーラを眺めていた。

 キーラが本当にもどかしく感じている部分に、まったく気づいていない表情だ、それくらいわかる。あたしはこれだけ感情的になっているのに、と理不尽な訴えを叫び出しそうになって、ぐっとこらえる。落ち着け、と云い聞かせれば、低い声が出た。

「あたしはマーネに戻らない。じいさまに説得させようとしても無駄だから!」

 そうとだけ告げて、テーブルの上を片づける。なにもかもワゴンにのせて、部屋を出る。
 その間、アレクセイは沈黙したままだった。でもキーラを眺めていた。
 彼ももどかしそうな苛立ちを抱えている表情で、けれど最後までなにも云わなかった。