ルークス王国には、王族が所有する城がいくつか、存在する。
 これはかつて、王があちこちに移動して政務をとっていた時代の名残だ。いまは王都サルワーティオーにある城が王宮として扱われているが、厳密に云えば、王宮とは云えない。政務の中心であっても、王が暮らしていない場所だからだ。では王はどこで暮らしているのかと云えば、王都から南東にある城で暮らしているとスキターリェツは告げた。

「王宮で監禁するより、辺境で監禁したほうがより好都合だと考えたんだ」

 いまでこそ兵士は魔道士たちに掌握されているが、十年前は簒奪王の影響下にあった。

 王と軍を引き離すため、まず、魔道士たちは王を辺境の城に幽閉した。さらに王に心酔していた士官たちを王位簒奪に与した罪で寒冷地に飛ばした。そうして王の力を削いだ。

 魔道士たちの台頭によって、特権を失った貴族が王の元に集い反乱を起こそうとした事態も発生したが、辺境だからこそ目立った動きとなり、貴族たちは次々と処刑された。だからこそ王はすっかりおとなしくなり、王制を廃止する、という文書にもサインしたようだが。

「だけど、それでも王さまだからね。先の文書に、民を動かす力はなかった。でも王さま自身なら、まだ民を動かせると魔道士たちは考えている。つまり、まだまだ利用しようとしているんだ。面倒だろ? だから魔道士たちの手から、王を奪い返してほしい。なにより、アレクセイに譲位させるためにも、王宮に戻ってきてくれたほうがありがたいしね」

 つらつらっと告げたスキターリェツは、そのまま『灰虎』にキーラの護衛を依頼した。

 しかし、なにしろスキターリェツの依頼である。『灰虎』はみな、反発した。なぜおまえの依頼を受けなきゃならんのだ、とはアーヴィングの言である。一同、そろって頷いた。

 だがスキターリェツがにこやかに「じゃあ、キーラを一人で王さま救出に行かせるのかい」と云い返せば、しぶしぶ依頼を引き受けた。セルゲイが率いる部隊からキリルと、以前、一緒に船を調査したカジミールとセレスタンが選ばれ、さらにチーグルが加わった。

 かくして、キーラは現在、南東にある街に向かっている、と云う次第である。

「しあわせじゃのう」

 にこにこしながら、キーラと同じ馬車に乗ったチーグルが云う。

 じっと窓から外を眺めていたキーラは、チーグルを振り返った。足元にはルークス王国の森から呼び戻したレジーナが横たわっている。魔道能力を失ったいまでも、キーラの影響下にあるかと不安だったが、いざ、森に入れば、自分から姿を現してきた。近づいたキーラの手のひらをぺろりとなめ、話しかければおとなしく従う雌虎は今の状況では、とてもありがたい存在だ。

「しあわせって、なにが?」
「おまえさんと旅ができることが、じゃよキーラ。わしの長い間の夢じゃったからのう」

 まっすぐな好意が伝わってくる言葉に、キーラはまたたいて、小さく笑った。
 戸惑いを覚えているが、チーグルの好意は、素直に嬉しい。魔道能力を失っても変わらない態度も、だ。

「あたしは少し、緊張しているわ。なにしろ、あの、チーグルと旅なんだもの」

 なにしろ温厚なところばかり見ている。コーリャ爺と呼ばれる彼が、チーグルと呼ばれる伝説の傭兵でもあると忘れそうになるのだ。そう続けると、照れたように笑う。

「うれしいの。わしの望みは平凡な爺になることであったゆえ」
「そうなの? じゃあどうして傭兵になったの? それも伝説と呼ばれるほど」
「わしには戦う以外、能がなかったからの。生き残らなければ爺になれぬから、必死で戦っておっただけよ。ようやく爺になれたと思うたら、いつの間にか伝説になっておったな」

 にこやかな笑みを浮かべたまま、さらりと云ってのける。言葉遊びのような返答は、しかし、チーグルがたどってきた過去を想像させる。思わず言葉を失っていると、苦笑を浮かべ直したチーグルが、「ミハイルもそうなるかと思っておったが」と続けた。ひさしぶりに聞いた名前に、チーグルを見返した。苦笑しているが、ほんのわずか、哀しげでもある。

「あやつには、実のところ、大切なものがなかった。わしのように、平凡な爺になってのんびり穏やかに暮らしたいという、夢すらな。ただ、拾われた場所が傭兵団であるため、単純に戦いの技術を磨いて生き残った。……このままでは不幸になると思うておったよ」
「……生き残ることが、不幸なことなの?」
「大切な夢や望み、存在を抱かぬまま生き続けることが不幸、なのじゃよ。たとえ賞賛される傭兵になったとしても、ただ、呼吸して剣を振り回すだけでは、虚ろな英名に振り回され、堕ちていくだけじゃ。ま、ミハイルのやつは頑固じゃからそうそう堕ちぬじゃろうが、少なくとも自らを満たす存在など知らぬまま、他者の思惑に生きるのは不幸であろ?」

 そうかもしれない、と、キーラは感じた。

 自分自身を振り返ったら、わかる。キーラがしあわせだと感じていた瞬間は、もちろん無数に存在しているけれど、いちばん自分を満たすと感じた瞬間は、やはり夢を叶えようとしていたときだ。マーネでは毎日、朝から晩まで、働いていた。立ちっぱなしできつかったけど、夢を叶えるための労働だと感じていたから、乗り切れた。いつか店を開き、思い出の少年と再会するのだ、と想い描くたびに、わくわくしていた。
 あんなに心躍る瞬間を、キーラは他に感じたことはない。だからしあわせなんだ、と感じていた毎日だ。

 いまはもう、遠い過去になってしまったけれど。

「じゃあ、いまのミハイルは?」
「うむう?」
「しあわせなのかしら。親友とは云え、アレクセイ王子の依頼を果たすために、自分の人生をなげうっている。名前も、なにもかも、すべて放り投げて、まさに他者の思惑に生きているミハイルはこの先、しあわせになれるの?」

 まっすぐにチーグルを見て、キーラは問いかけた。思いのほか、必死な響きになっていたかもしれない。なぜならチーグルは、キーラが知りたいと願った内容を知っている。

 キーラはアレクセイ、すなわちミハイルの味方でいる、と決めた。味方でいる、とはすなわち、彼のしあわせのために力を尽くすことだ、と考えた。けれど魔道の力を失ったキーラは、ミハイルの力になれない。だから他の面から力を尽くそうと考えても、マーネに帰れ、と云われる始末だ。

 なら、もうなにもするべきではないのだろうか。放っておいても、キーラが何もしなくても、ミハイルはしあわせになれるのだろうか。

「ミハイルが、好きかねキーラ」

 ところが返ってきた答えは、まったく思いがけない言葉だった。

 きょとんとまたたいて、キーラは苦笑する。誤解されているんだな、と悟った。キーラがミハイルのために必死になる理由を、恋愛感情からだと思われている。首を振った。

「ちがうわ。ただ、放っておけないだけよ。あたしはミハイルの、アレクセイの力になると決めたの。味方であり続けると、自分自身に誓った。だからしあわせになってほしいの」
「ほほう、なるほどのう」

 にこにこ、とチーグルは哀しみの気配をくるりと消した。
 どことなく嬉しそうな雰囲気に、理解されていない事実を悟る。さらに言葉を重ねようとしたら、「キーラ」と呼びかけられた。しぶしぶ口をつぐむと、チーグルはこう続けた。

「不幸の定義はたやすい。じゃが、しあわせの定義はむずかしい。少なくともいまのあやつは不幸ではなかろう。だからといっての、しあわせかといえば、きっとちがうはずじゃ。おまえさんが知りたい答えをわしは知らぬ。知っているのは、ミハイルだけであろうな」

 だから直接、ミハイルに問い質してごらん、と、チーグルは締めくくった。