(予想していたけれど)

 長く使われていない通路と云うことは、すなわち、長い間、だれも掃除していない場所と云うことである。狭い通路を進みながら、キーラは羽織ったマントを握りしめた。

(けっこう汚い)

 蜘蛛の巣や壁にくっついた土汚れ、触れそうになるたびにひやひやする。なぜなら薄汚れた侍女などいない。この通路は王の部屋に直通しているが、万が一のための扮装なのだ。不審を抱かれる様子では、意味がない。だから先を進む一行に、どうしても遅れがちになる。慎重になろうと決めたが、かといって足手まといも問題である。そうして歩行に意識を集中していたから、カジミールがぼそりとつぶやいた内容への反応が遅れた。

「しかし、王弟の救出とは皮肉だね」

 沈黙が続いたから、カジミールのつぶやきが余計に際立った。

(皮肉?)

 うつむいていた顔を上げて、発言者をまじまじと眺める。先頭を進むカジミールに、キーラの様子は見えない。だが、キーラのすぐ後ろを進んでいるセレスタンがたしなめるように呼びかけた。セレスタンの微妙な響きに驚いて、続いたカジミールの言葉に息を呑む。

「よりにもよってアリョーシャを追い落とした存在を、アリョーシャを殺したやつの仲間の依頼で助けに向かうとはね」

 マントを握りしめていた手に、力を込めた。そういう一面がある、とは、気づいていた。

 だが、考えないようにしていた。あの子の身に起きた苦難のそもそもの原因であり、同時に、あの子がキーラと出会うきっかけともなった存在だ。だからなのか、なにも感じない。正の感情も負の感情も、まったく抱けない。キーラにとって、王弟はただの記号だ。これ以上、魔道士たちに勝手をさせないため、アレクセイを王位につけるため、スキターリェツに云われるまま、手元に確保しておきたい存在でしかない。

「仕事だからな、しかたないだろ」

 だが、あの子を仲間として扱っていた『灰虎』にとってはちがうのだ。複雑な感情を揺り動かす存在なのだ、と、つぶやくカジミール、応えるセレスタンの会話に感じ取って、キーラは唇を結んだ。なにをどう云えばいいのか、なにをどう感じたらいいのか、さっぱりわからない。いろいろと考えさまよって、そろそろと、口を開いた。

「……本当の、アレクセイ王子はどんなひとでした?」
「わがままなやつ」
「腹が立つやつだ」

 即答である。あんまりな評価じゃないかしら、と考え、いや、とキーラも否定した。

 思い出をたどれば、キーラも似たような感想を抱いてしまう。なにもかも見透かした言動の裏で、キーラを観察していた少年だ。正直に云えば、どうしていまだに大切に感じているんだろうとも感じる。でも、と、泣き出したいような、笑い出したい気持ちで想う。

 忘れられない存在だ、と。

 どうしてあのとき、キーラの傍にいてくれたのか。なぜ、キーラを気にかけてくれたのか、さっぱりわからない。閉塞していた気持ちに風穴を開けてくれた事実が圧倒的で、ずっと会いたいと願い続けた歳月がキーラをくらませて、少年がなにを考えていたのか、推測させてくれない。相手の思考を追いかけるより先に、自分の感情が思考を埋め尽くす。

 いまもまた、あたたかくてしあわせな感触を抱きながら、キーラは微笑んだ。

「でも、忘れられないひとなんですね?」

 短い沈黙を落として、やがて二人は溜息をついた。

「仮にもおれを負かしたやつだからな」
「なにより、云うことはいちいち的を射ていた。認めないわけにはいかないだろう」

 本当にしぶしぶと云った様子がおかしくて、吹き出さないよう、口元を抑えた。いまは潜入作戦中だ。ましてやそろそろ目的地にも近い。笑声を響かせたらまずいだろうと必死でこらえていると、最後尾にいたチーグルがぼそりと恨めしそうな声をあげた。

「わしは隠しておいた酒を盗られた。バイティアン三十年物じゃったのに」

 あまりにも情けない声だったから、手のひらの下でごふ、と、呼気があふれた。
 ところが男たちはキーラの反応にかまわず、いっせいに同情の声をあげる。

「うわ、そりゃひでえ」
「あいつは人の弱みや宝を探し出す特技があったんですよ。チーグルだけじゃありません」
「唯一、ヴォルフのやつには忠実だったよなあ。買い物には付き合っていたし、料理の下準備も進んで手伝ってたし、食器洗いもいやがらなかった!」
「ぼやくなカジミール。胃袋をつかまれていたんだ、しかたないだろ」
「……そういえば、ズジュエも毎回、盗られておったのう……」

 三者三様、それぞれに語り始める。盛り上がる。
 いまは潜入作戦中なのよ、と、たしなめたい気持ちがあったが、キーラとて必死で笑いをこらえているありさまだ、説得力がない。なによりアリョーシャ王子の話を振った人間はそもそもキーラだ。だから最後まで聞かないと、と、言い訳しながら、続々と暴露話を聞く。

 聞けば聞くほど、どうしようもない存在だと感じる。
 でも、だからこそ伝わる。あの男の子が、だれにとっても忘れられない、印象強い存在であった事実。もう少し、わかりやすい存在だったらよかったのに。たくさんの称賛を向けられるにふさわしい存在だったら、と考えかけて、唇が笑みを含んだ。もし本当に、おとぎ語に出てくるような、いかにも王子さまらしい、やさしくて善意にあふれた、欠点など見当たらない存在だったら。

(きっと、さっさと忘れていたわね)

 笑いの衝動はすっかりおさまっていた。どうしょうもないひと、と温かく心のなかでつぶやくころには、男たちも静かになっていて、侵入経路の終わりに近づいていた。

「――――ここが、王の部屋だ」

 やがてたどりついた壁の前で、みな、表情を引き締める。

 それぞれに視線を交わし、頷き合う。壁に埋め込まれていた取っ手をつまみだして、くるくると回した。音が響くのではないか、と案じていたがそれはなく、ゆっくりと壁が持ち上がる。緞帳がおおっていて、振動のためかわずかに揺れ、新鮮な空気が流れ込んだ。

 ふわりと。なんともいえぬ、素晴らしい芳香とともに。