くん、と反射的に鼻を動かして、芳香を追いかけていた。たまらなく素敵な、うっとりするような香りだ。華のようにみずみずしい甘さがあって、かすかにスパイシーでもある。

 さすがは王の部屋、とキーラは感心した。わざわざ香を焚いているのか豪勢なことね、と、なにげなく考えて、ぴたりと動きを止めた。

(お香、って、わざわざ虜囚のために用意するかしら?)

 でも現実に、漂っている匂いはこの世のものとも思えない馨しさで、ともう一度確認した次の瞬間、緞帳をめくって飛び出していた。「キーラ!」と小さな声で呼びかけられたが、気にならなかった。もし、キーラの考えが正しいのなら、王弟は動かせない状態にある。

 飛び込んだ先には、天蓋付きの寝台が置かれていた。レンガ造りの壁に、ゆらめく灯りが固定されていて、そこから芳香は漂っている。キーラはとっさに口元をおおって、匂いを吸い込まないようにした。モルスだ。人間の免疫力を低下させる、毒煙をはなつ石が照明の材料として使われている。同じように緞帳から飛び出たカジミールが、窓を開けようとして舌打ちした。どうやら開かないようにされていたらしい。チーグルがキーラの腕を取り侵入経路に押し込めようとしている間に、セレスタンが寝台の幕を払おうと動く。

「だれかね?」

 ところが幕が開かれるより先に、かすれた声が響いた。

 ぎくり、と、キーラは動きを止める。この声は聞いたことがある。もっと力にあふれていて、もっといけ好かない印象だったけど、この、よく通る声をロジオンの記憶で知った。

「……王弟殿下でいらっしゃいますね?」

 チーグルの手をゆっくり払って、キーラは寝台近くまで進み出た。会話の邪魔だ、口元をおおっていた手のひらをどける。背後で舌打ちが響いたが、気にする余裕がない。

 くつくつ、と、こもった笑声が響いた。

「王弟殿下、か。そなたら、何者だ?」
「アレクセイ王子の味方です。王子殿下のために、王弟殿下をお迎えに参りました」
「面白いことを云う。アレクセイは亡くなったのだぞ?」

 魔道士どもがそう云っておったわ、と、笑いながら告げ、幕に手がかかる。  乱暴に幕が払われ、一人の男が寝台に横たわっている姿が見えた。目をみはった。王弟の姿はロジオンの記憶を通して知っている。顔立ちが整ってるわけではないが、不思議と目を惹きつけられる、男性的な容貌の持ち主だった。だがこれは。いま、キーラの前にいる存在は、顔立ちは変わらないまでも、まるで別人だった。痛々しいほどやせ細り、かさついた肌をしている。顔の肉はこけていて、すっかり病み衰えた印象だ。この十年の間に、なにがあったのだろう、と考えるキーラの鼻に、モルスの匂いが届く。そうか、と閃いた。ぎゅ、と、こぶしを固く握る。

「……失礼ですが、この匂いがなんなのか、王弟殿下はご存知ですか」
「モルスであろう? ふ、そんな顔をするな。王位簒奪者に与えられる罰としては軽いものよ。首を取られるわけでもなし、そなたがうろたえることではない」
(うろたえているわけじゃないわ)

 怒っているだけよ、と、キーラは心のなかでつぶやいた。

 考えてみたら、合理的な方法だ。
 モルスによって免疫力が低下したら、さまざまな病気にかかりやすくなる。すなわち、健常な思考能力が衰えるし、自ら行動しようという気力も失われる。政治に口をはさむ余裕も、改革を行う精力もない。いまの王弟にできることと云ったら、せいぜい、差し出された文書にサインをするくらいだ。王位簒奪者をそうした状態に追い込んで、魔道士たちはこの十年、ルークス王国を動かしてきたのだ。そういう事情を理解した。

(でも、――――生きている人間をなんだと思っているの……っ)

 魔道士たちは自覚していないのか。これがどんなに残酷な行為か、気づいていないのだろうか。魔道士として人間として、してはならない行為の区別すら、もはや出来ないのだろうか。

 キーラは紫衣の魔道士ではなくなった。だからルークス王国の魔道士を滅ぼせ、と云う命令も無効になった。人殺ししなくていい事実に、安心した過去がある。でも、と、心の内でつぶやく。安心してよかったの、と、うめくように想う。こんな、――――こんな、ひとの命をもてあそぶような、そんな行為を。

 唇をかみしめて震えているキーラの腕を、とんとん、とチーグルが叩いた。はっと我に返ったキーラはあわてて、本来の計画を思い出した。セレスタン、カジミールに視線を巡らせて、王弟を背負っていく事実への了承を得た。

「とにかく、王弟殿下をお連れします。どうぞ」
「行かぬ」

 かすれながらも、きっぱりと響いた声がキーラの言葉をさえぎった。  眉間にしわを寄せて王弟を見返せば、苦笑を含んだ眼差しがキーラを見た。

「わたしがここを出ても、そなたらの足手まといになるだけだ。足も満足に動かぬし、なにより、アレクセイとて、父を殺した存在など助けたくもないだろう。捨ておけ」
「……本気でおっしゃっておいでですか」

 こらえていた怒りが、ゆっくりと対象を変えようとしている。その感情のまま、王弟を睨んだ。

 こんな環境へ従容としている存在が腹立たしい。いま、理不尽を受け入れられるのなら、なぜ、実兄を殺してまで王位を求めたのか。自分の命を諦められるくらいなら、なぜ、十年前に王位を諦めなかった。
 諦めることができなかったからだろう。想うところが、願うところがあったからだろう。それなのに、この男はいま、いったい何をしている。ただ、自分を諦めるだけか。唯々諾々と、魔道士たちの思惑に従うだけが、いまの望みか。

「あいにくですが、あたしに、あなたの命令を聞かなければならない理由はありません」

 眼差しを細めて云い放ったときだ。どんどん、と扉が叩かれた。
 は、と、顔を向ける。会話の気配に気づかれたのか。「陛下、よろしいでしょうか」と呼びかけてきたのは侍従だろうか。会話に集中し過ぎた、と自分を叱責したい気持ちでいっぱいになる。どうしよう、どうしたらいい。いま、部屋に入り込まれて、魔道士や兵士を呼ばれたら、捕まるしかない。目的も果たせないまま、半端なまま、終わるしかない。
 帰れなくなる。

「何用だ。そのままで報告せよ」

 すると寝台にいた王弟が声を張り上げたので、キーラは驚いて振り返った。  すでに動いて扉付近にて身構えていたセレスタンやカジミール、チーグルも王弟を見た。静かな表情をしている。つい、とあごを動かして、隠し通路を示した。

(いまのうちに、逃げろってこと?)

 戸惑ってとっさの判断に迷っていると、王弟の命令に従ったらしい侍従の声が扉越しに響いた。

「アレクセイ殿下と名乗る青年が訪ねて参りました。いかがいたしましょう」