「そんなの、王子さまを優先させるに決まってるじゃないの」

 あっけらかんと云い放たれた言葉に、さすがに驚かされた。聞き間違えたかととっさに考えたが、耳たぶを赤くしたキーラに気づいて間違いではないと悟る。じわじわとこみあげてくる感情は、誤魔化しようがないほど温かな感触で、アレクセイの心を満たした。

「……あなたの使い道、ひとつ、思いつきましたよ」

 気がつけば口を動かしていた。アレクセイが抱く、この感情を保ち続けるには最適な使い道・・・だ。キーラを。けれど我に返って、その続きを慎重に心の底に沈めた。

 キーラ・エーリンと云う少女の本質を、決して見失わない。日常の些事に振り回され、胸躍る夢を追いかけ、大切な存在と共に生きる。そんな生き様がふさわしい、ごく普通の少女なのだ。最高位の魔道士、比類なき魔道能力。少女を間違いなく定義づける特徴を、あっけなく宝の持ち腐れにしてしまう、本当に平凡な、お人好しに過ぎる少女なのだ。

 これ以上、利用してはならない。たしかに、協力を申し出てきたキーラに、遠慮なくこき使うと明言したけれど、それでもキーラの人生そのものまで、不当に奪ってはならない。

 だから確実に存在し続ける感情を持て余し、アレクセイは笑い返す形で苦笑を散らした。

(まったく、このお嬢さんは簡単に云ってくれる)

 ルークス王国の王子アレクセイとしての生涯を一人で歩くと決めた、彼を簡単に揺さぶる言葉を、キーラ・エーリンと云う少女はぽんぽんとぶつけるのだ。

 まったく、忌々しいほどに。

 *

 二人で夜食を平らげ、キーラはようやくアレクセイの部屋を退室した。
 適度に休むようにね、とは去り際に云い残したキーラの言葉だ。無茶や無理をするな、と云わないところが、素直にありがたい。なにしろいまは正念場だ。アレクセイとして、さまざまに対策を講じなければならないとわかっている。それはきっと、キーラも。

 書き物机に戻り、まだ未決済の書類に手を伸ばす。概要を覚えながら判断し、署名する。自分が決裁してもいいのか、と云うためらいはいまだ強い。だが、こうしてアレクセイが王宮入りし、魔道士たちが殺害されたいま、議院内閣制に関与していた識者たちは責務を放棄している。だとしたら、不慣れであってもアレクセイが処理するしかない。亡き親友の名を貶めないよう、アレクセイは慎重に書類と向き合っていた。

 そうして、ゆらめくろうそくの芯が、かなり、短くなったころの出来事である。

 空気の揺らぎを感じ取ったアレクセイは、ぴたりと署名する手を止めた。書類から視線を外し、眉間をもみほぐしながら、口を開いた。

「報告を」
「は」

 アレクセイの命令に応えて現れた存在がいる。全身、黒衣で身体をおおった人物だ。顔も見えない人物だったが、身体つきから壮年の男だと推察していた。ゆったりと椅子に腰かけたまま、両手を組み合わせてアレクセイは男の報告を聞く。

 ――――男は、侍従長より存在を知らされた、『影』の一人である。

 本来はルークス国王に従う存在であるらしい。だからなのか、ルークス王宮に入った直後のアレクセイには知らされていなかった。だが現王を魔道士たちから救出し、彼の体調を気遣いながらいっしょに王都に帰還したあと、侍従長によって引き合わされ、アレクセイに従う存在となった。

 正直に云えば、胡散臭いと感じる面が多々ある。たとえば、なぜ、現王に従っていなかったのか。たとえば、なぜ、侍従長が『影』を従えていたのか。たとえば、なぜ、侍従長はとっくに偽物だとわかっているだろうアレクセイと、『影』を引き合わせたのか。

 だが、現実問題、アレクセイは使い勝手のいい駒が欲しかったのだ。頼りにしている仲間たちはじきに解放しなければならない。とすると、アレクセイの代わりに動いてくれる存在を失うことになる。だから、『影』は本当に都合のいい存在だった。

「神官たちの様子は?」
「いまは落ち着いております。ですが、魔道士たちの件が響いておりまして、殿下への不信を囁く者もおります。神官長が抑えているようですが、近々、殿下へ使者を送る心づもりであるようです」
「なるほど。では議員たちの様子は?」
「一様に、本来の仕事へと戻っております。政に関わる様子を見せては自分の身が危ないと考えているようで、なかには家族を避難させようとしている者もおります」
「王都の様子と魔道士ギルドは?」
「殿下への不信が半分、魔道士ギルドへの不信が半分、と云ったところでしょうか。魔道士ギルドにいやがらせをする輩は相変わらず存在しておりますが、その一方で、ロジオン・ヴェセローフらに怯える者もおります。魔道士らの死にざまが新聞によっておおげさに伝わっているようですね」

 男の報告を聞き終え、ふう、とアレクセイは息を吐いた。

 予測通りの状況だが、現状はアレクセイに厳しい。なにしろ魔道士たちの敵対者と云えば、王子アレクセイか、魔道ギルドだった。魔道士たちの一件は、王子と魔道ギルドが手を組んで魔道士たちを排除した、と云う考えが自然なのだ。新聞め、と忌々しい心地でつぶやく。妄想をかきたてる無責任な記事を、よくも書いてくれた。だがそれ以上に忌々しいのは、もちろん、魔道士たちを殺害させた勢力である。

 組んだ両手であごを支え、アレクセイは考え込んだ。これからどう動くか。実のところ、それが問題である。事態は思いがけず硬直している。だが、刻々と時間は経過している。

(このまま期限を迎えるわけにはいかない)

 一か月、と云う諸国と交わした期限までの残り日数を数えて、アレクセイは頭を振った。問題は山積み、最終的な決断もまだ下していない。だが、いまは動かなければならないのだ。