王宮を訪れる時刻は決まっている。ようやく太陽が昇り始める時刻だ。
王宮はもちろん、他者の屋敷を訪問するには、いささか非常識な時間である。だが、しかたがない。なぜなら訊ねる部屋の主、現在のルークス王の起床時刻は早い。キーラはルークス王を朝食前に診察すると決めている。だから必然的に、この時間になるのだ。
ちなみにキーラが借りた家は、住宅街にある集合住宅だ。もう少し高い部屋を借りたらどうだとまわりに薦められたが、分相応と云うものがある。いまのキーラは、魔道士ギルドのルークス支部長である。だからといって高い部屋を借りなければならない理屈はない。
だから今朝も、朝早い時間だからまわりへの迷惑にならないよう、そっと静かに扉を開けた。足音を忍ばせて、階段を下りる。そうして中央道路に出たとき、ほっと息をついた。息すら潜めて動いていたのだ。余裕を取り戻して、薄暗い街を歩き始める。季節は順調に冬に向かっている。以前より冷たくなった空気で眠気が退散する感触が心地よい。まだ準備中の屋台を通り過ぎながら、大きく開けた十字路に出た。
すると、一人の男が立っていた。
すらりと背の高い、痩身の男だ。腰に剣を佩いている部分に、無意識の警戒が働く。さりげなさを装いながら、だんだんとその男に近づき、そして。
気づいた。
キーラは直ちに意識を切り換え、大気にあふれている力を集めた。集めた力に風の形を与え、容赦なく男へ襲わせる。男は大きく飛び跳ねることで避けた。だが完全に避けきれなかったのだろう。大気に、男の髪が一筋、舞い落ちた。ち、と舌打ちしながら、キーラは時間も場所も忘れて、鋭く男に呼びかけた。
「よくもあたしの前に顔を出せたものね、マティアス!」
目下のところ、魔道士殺害の容疑者として手配されている青衣の魔道士だった。
ふ、と、空気が振動する気配が伝わってきた。笑っているのだ、と、悟った瞬間、か、と、キーラは頭に血を上らせた。再び力を集め、今度こそ避けられないように、と形を練り上げようとしたとき、ようやく男は口を開いた。
「ずいぶんお怒りだな。だが、おまえは、なにを怒っている?」
「なにを、ですって?」
「そうだろう? おまえは魔道士たちの仲間じゃない。アレクセイ王子の敵を殺害したからと云って、俺を怒るのは筋違いじゃないか?」
「アリアを殺したからよ!」
キーラは集めていた力を散らした。
魔道の力なんてまどろっこしい。もっと直接的に殴ったほうが、ずっと効率的だ。魔道士にはあるまじきことを考え、キーラは常に腰に差している警棒を抜いた。相手は剣を佩いている。だから再び、苦笑する気配が、空気越しに伝わってきた。
「やれやれ。ずいぶん短気な紫衣どのだ。せっかくアレクセイ王子への伝言を頼もうとしたと云うのに、見込み違いだったな」
(伝言?)
はじめていぶかしく感じて、だが、つけ入る隙を与えるまいと姿勢を立て直した。
「だったらこのまま、あたしに捕まるのね。そうしたら否応なく、王子さまに面会できるわよ。伝えたいことがあるなら、そのときに云えばいいわ」
「いいのか? そうしたら俺は、ウムブラの使者に付き従うものだと主張するぞ」
完全な開き直り、とも云える言葉に、キーラは口をつぐんだ。
すでに、アレクセイの即位の式典は五日後に迫っている。各国から続々と式典に出席するための使者が入国している現状だ。ウムブラからは王太子が訪れることになっているが、たしかまだ、入国していないはずだ。マティアスはウムブラ王太子の先触れだと主張するつもりだろうか――――。いや、それだけではない。
魔道士殺害の犯人が、ウムブラ王太子の命令を受けた者ならまずい、と気づいた。
なぜなら不祥事を起こした魔道士を処分するべきは、魔道士ギルドであり、あるいは、被害を受けたルークス王国だから。ウムブラは、
「……あなたがわからないわ。あなたはだれの味方なの?」
このまま頭に血がのぼったキーラに捕まったほうが、ウムブラには都合がいいはずだ。まさにいま、想定した通りの事態が発生し、王太子の目論み通りになっただろう。なのに、マティアスはキーラに注意を促す。ウムブラの密偵にもかかわらず、ウムブラの利益を第一の目的にしていない。いま、その事実が、感覚から理解できた。
そろそろと眩さを増した、太陽の光があたりを照らしている。立ち尽くすキーラとマティアス、二人の魔道士を朝陽が照らしている。お互いの表情がよく見える。マティアスは思いがけず、真摯な表情を浮かべていた。ようやくキーラが話を聞く態勢に入った事実を悟ったのだろうか。じっと見据えて、口を開いた。
「おまえたちは災いを倒したんだったな」
「そうよ」
なぜ知っている、とは問いかけても意味はない。ただ、素直に肯定すると、男は不思議な言葉を続けた。
「ならば次の標的は、精霊王だ。やつを消滅させることによって、この国は統一帝国のくびきからようやく解放される」
(え?)
「それが、アレクセイ王子への伝言だ。頼んだぞ、紫衣のお嬢さん」
そう云って、マティアスは踵を返した。
反射的に追いかけようとして、さっき、気づいた内容が頭をよぎる。「ああ、もう!」、複雑な心地でつぶやいて、キーラは頭を振った。
どうやら診察の前に、アレクセイたちへ相談の必要があるようだった。