ようやくたどり着いた国境地帯、うっそうとした森の入口に馬を止めた。
首筋を撫でてやれば、よくしつけられている馬は、キーラに鼻先を摺り寄せる。待っててね、と、小さくささやいて、マティアスと共に森に進んだ。
まだ陽が明るいときに着いたが、森に入るとうす暗い。キーラは魔道の明かりを灯した。マティアスが先を歩く。その背中を眺めて、口を開いた。
「本当は、あなたに会ってほしい人がいるのよ」
無視するのではないかとも考えたが、マティアスは先を促した。
「貴族のお嬢さま。あなたに、大切な恋人を殺されたんですって」
「ヴェリホフの令嬢か」
わずかに振り返ってそんなことを言うものだから、キーラは驚いた。
知っていたのか。魔導士の恋人を失った、文官希望な貴族の令嬢を。
だったらなぜ、と、訊ねたい衝動に駆られた。なぜ、魔導士たちを殺害した。精霊王の消滅を望みながらなぜ、ウムブラ王国の密偵などしている。
だから、マティアスが続けた言葉には不意を突かれて困惑した。
「ルークス王国とウムブラ王国は、とても深い繋がりがあると知ってるか」
「え?」
反射的に声をあげたが、マティアスは再び前を向いて、表情を隠した。
「ルークスの名前の由来は『光』、ウムブラは『闇』だ。このちがいはどこからきたと思う?」
「……知らないわよ、そんなの」
「考えろよ、魔導士だろ。それに、おまえにも無関係な話じゃない」
(なんでそんなにえらそうなのよ)
少しばかりむっとしながら、しぶしぶ、考え始めた。
ルークス王国が光、ウムブラ王国が闇。奇妙な由来だと感じた。いまのご時世ではルークス王国は小国だと知られており、ウムブラ王国は堂々たる大国だと知られている。ウムブラ王国こそ、光と呼ばれてもおかしくない。
(――あ、)
けれど、キーラの直観的資質が、ある考えをひらめいた。
「統一帝国時代の痕跡?」
「七十点。より正確に言うなら、『魔道』だ。ウムブラは魔導士を排斥してきた国でもあるんだよ。魔導士殺し、――魔道という光を否定している輩が建立した国。それがウムブラだ」
思いがけない答えだった。驚いて、だが、強烈な違和感を覚えた。
魔導士ギルドの本部はウムブラにある。魔導士を排斥してきた国だというなら、なぜ、よりにもよって魔導士ギルドの本部を置かれることを了承されたのだろう。時代が変わった、その一言では片づけられない気がする。ウムブラ側になにかの思惑があるのか。
しかしキーラはその疑問を放置して、別の疑問を口にした。
「あなた、――自分にかけられた魔道をなくすためにウムブラに?」
ふ、と、かすかな笑い声が聞こえた。
「やぶれかぶれでな。魔導を否定する輩だからこそ、殲滅目的である魔道について、ほかのどの国よりも詳細な知識があった。精霊王と呼ばれ始めた男はおれを解放するつもりはない。だとしたら、と考えるのは当然だろ?」
「それでウムブラ王国に、いいように扱われていたら世話はないわね」
魔道ギルドの長として、マティアスに告げられた内容を慎重に受け止めながら、それでもキーラは辛辣に告げた。
だから、ウムブラの密偵になったのだ、という答えは得られた。
だが現実に、こうしてマティアスは生き長らえている。つまり、マティアスの思惑は外れたのだ。にもかかわらず、ウムブラに従っている。
(ちょっと、お人よしにも過ぎるんじゃないかしら)
素朴な感想は、返されたマティアスの応えにあっさり消えた。
「ほかにすることがないんだ、しかたないだろ」
「しかたないで殺されたら、浮かばれる人も浮かばれないわ」
冷やかに切り返し、目を細めてマティアスの背中を睨む。
いま、こいつを殴り倒すべきじゃないか。精霊王など放っておいて、とりあえずマティアスを確保して、クリスティーナの元に連れていくべきでは。
まあ、ちっとも現実的な考えではないと、充分にわかっている。
ため息ひとつついて気分を切り替えようとしたとき、マティアスが告げた。
「だったらおまえ、おれを殺してくれるか」
ひととき息を止めた。マティアスは足を止め、ゆっくりと振り返る。
「おれの過去を知っている。どういう仕組みかわからんが、おまえ、あいつの知識を得たんだろ。だったら、おれにかけられた魔道の構成もわかっているんじゃないか」
ならばマティアスにかけられた魔道を解くこともできるはず。要するにそういう主張だ。
キーラは唇を結んだ。その通りだ。あの魔導士が行使した魔道の構成、すべてを得ている。永続魔道も、解除の方法も。キーラはマティアスを永遠の呪縛から解放できる。
だが。
「おことわりよ」
キーラも足を止めて、マティアスを真っ向から睨んだ。
これでも世界最高位の魔導士だ。技量的に問題はない。これまで学んだ魔道とは系統が異なっても、統一帝国時代の魔道を行使できないことはない。
でもそういう問題ではないのだ。
「あなた、なにも責任を取らないまま、自分の望みだけを叶えるつもり」
鋭い調子で告げたが、マティアスの平然とした様子は崩れない。
「罪人を処刑するんだ。結局は同じだろ」
「同じじゃないわ。あなたは終わりたいから本望でしょうけど、クリスティーナ嬢にとっては、……あたしにとっては全然、そうじゃない!」
「おまえにとって?」
あくまでもいぶかしげなマティアスの様子に、なにも知らないのだ、と、失望めいた怒りを感じながら言葉を続ける。
「逢うはずだったのよ、あたしたち。マーネでいつか、あたしはアレクセイ王子と逢うつもりだったの」
さすがに思いがけない言葉だったのか、マティアスは目を見開いた。
「おまえ、アレクセイ王子と、」
「知り合いだったわ。魔道ギルドで。たぶん、じいさまに会いに来たチーグルと一緒だったんだと思うけど」
「それで約束でもしたのか。……は、それなら」
「だから言ったでしょう。おことわりよ。そもそも、あたしが長年、大切にし続けてきた願いを壊しておいて、自分の願いをかなえてもらおうなんて図々しいことこの上ないわよ、くそじじい」
(それに、)
続いた言葉は、そっと心のなかでしまっておく。
――――それにもう、あたしはあの子のために復讐できる立場じゃない。
より正確にいうなら、復讐する情熱がない。ロジオンの記憶を共有し、約束した子が殺された王子だと知った直後なら、出来たかもしれない。
でも、時は過ぎている。
その間に、キーラも変わった。夢だけを大切にしていたキーラは、より広く、より勇敢で、より大胆で、より現実的な可能性に目を向けたいと願うようになっていた。狭い世界から飛び出ていた。復讐だけのために動けない。
(ごめんね)
わずかにまぶたを伏せて、アレクセイ王子だった少年に、そっと謝る。
約束などしてない。ただ、通り過ぎたに過ぎない存在なのに、勝手に思い入れて、勝手に夢の対象にして、あげく、勝手に忘れ去ろうとしている。
「ごめんね、アレクセイ王子」
思わず声に出してつぶやいたとき、キーラは明瞭な応えを聞いた。
『いいんですよ』
どうしようもないほど懐かしい、夢のはざまで聞いた声がささやいた。