幻聴だと、まず考えた。

 幻聴とは形を変えた自分の声だ。あの子に許してほしいと願っている自分の一部分が、あの子の声を借りて応えたのだと考えた。

 けれどなぜか、マティアスが身動いた。キーラに背中を向けて、進んでいた先へと向き直る。だからキーラも顔をあげて、息を呑んだ。

 いつのまにやら、向かう先には、ぼんやりと輝く存在がいたのだ。

 歩く音は聞こえない。だが耳を澄ませなくとも、すぐに意識体だとわかった。そう、かの魔導士と同じ存在だ、肉体を持たない存在。けれどまるで足で歩いているかのように、ゆっくりとした速度で近づいてくる。

 近づいてくるにつれて、こまかな顔立ちが見えてきた。

 ――――声が似ている。記憶のなかにある声とほぼ同じ声。おまけに、こうして近づいてくる顔だちを見れば、愕然と動きを止めてしまう自分がいる。

(アレクセイ王子……!)

 ひねくれたやりかたで力づけてくれた、あの少年がキーラを見ていた。時の流れとか、そう云うものがすっぽり頭のなかから消えた。まさか、と考える思考が止められない。ありえない、とわかっていながら、止まらない思考が馬鹿げた推測を抱かせる。だが、

『はじめまして、魔導士のお嬢さん』

 やわらかな響きの、やわらかな言葉が聞こえたとき、肩から力が抜けた。

(ちがう)

 目の前に立つ、意識体の少年は、決してアレクセイ王子ではない。冷静になればわかるはずだ。かの魔導士と同じ、意識体。紋章から解き放たれた意識体がいるはずの場所。

 すなわち、彼こそが、ルークス王家の始祖だと。

「……お初にお目にかかります。あなたが、その、」

 くすくすと可笑しげな笑い声が、キーラの意識に響いた。

『あたり。次代精霊王なんて恥ずかしーい名称で呼ばれてた、ルークス王家の始祖ですよ。個人名は忘れたから、訊かないでいただけますか』
「あ、はい」

 反射で答えて、キーラは眉を寄せた。

 個人名は忘れた?

 奇妙な事実を教えられた、と考えた。生きた人間を意識体に変える魔道は、すべての記憶を保持したまま意識体へと変える魔道なのに、と考えて、気づいた。正確には、魔導士からの知識が教えた。気づいた事実が物語る、別の一面にも同時に気づく。

 思わずマティアスを見直して、また、意識体を見つめた。そっと唇に指をあてるそぶりを見て、そうか、と、納得した。マティアスへの対応は、意識体に任せよう。

 なぜなら、マティアスの願いは、叶えられない。

 意識体は硬直したままでいるマティアスの前に進み、ひらひらと手を振った。ずいぶん子供っぽい動作だが、おかげでマティアスは我に返ったらしい。唇が素早く動いて呪文を唱え、マティアスの手のなかに力が集まる。あえて属性を与えられていない、力の塊。叩きつける勢いで、意識体にぶつける。

『痛いですよ?』

 けれど意識体は、平然とした様子で、存在し続けていた。そうだろうな、と冷静につぶやき、キーラは後退った。助力は必要ないし、しばらく戦いは続くと考えたからだ。

 はたして、マティアスはさらに攻撃を続けた。水の魔道に火の魔道、風の魔道に土の魔道。青衣の魔導士ではあったけど、統一帝国時代から生きてきた魔導士なのだ。だから四属性の魔道をすべて扱えるのだろう。木々が切り裂かれ、地面が陥没し、空気は竜巻となった。でも意識体は平然としている。

「……なんでだ……っ!」

 やがて悔しげにマティアスが呻いた言葉に、キーラは心のなかで応える。

 意識体とは、肉体の影響を受けなくなった存在。物質的なしがらみはないからこそ、いかに魔道と言っても物質的な攻撃は効果を発揮しない。

 マティアスも魔導士なのだ。教えなくてもわかるだろうと沈黙を守っていたのだが、代わりに、攻撃されていた少年が応えた。

『なぜと言いましても、ぼく、意識体ですし?』
「やかましい!」
『それにぼくを消滅させても、あなたは死ねませんよ。ぼくとあなたはつながっていない。いま、あなたが生きている理由は、精霊王とつながっているからじゃない。彼がかけた魔道が変質してしまっているからです』

 愕然と顔を上げたマティアスは、しばらくして、のろのろとキーラに顔を向けた。
 息をひとつ吐いて、キーラもうなずく。「いままで気づかなかったけど」と前置きして、少年の姿をした始祖を眺めながら口を開いた。

「つまり、あの人騒がせな魔導士も完璧ではなかった、ということよ。災いを消滅できたように、あなたにかけられた魔道も変わってしまっている。そもそも、精霊王なんてものを気取ってたあいつを消滅させられた理由は、意識体となったあいつが天空要塞に寄生していたからだしね」

 定義通りの意識体なら、そもそも、物質に寄生する必要はない。だってそうだろう。物質の影響を受けなくなった存在なのだ。なぜあえて、物質に寄生する必要がある。わざわざ弱点を作るようなものだ。意味がない、必要性がない。

 だが、かの魔導士は天空要塞に寄生していた。それはつまり、魔導士の魔道にも限界があったという事実を示している。定義通りの、完璧な意識体となれなかった事実だ。精霊たちを掌握するため、あるいは、統一帝国を再興する計画のためか。魔道士の知識を受け継いだキーラにしてもそのあたりは不明だが(なにせ魔道士の思惑は混沌としている)、いずれにしても、物質に寄生せざるを得ない意識体しか、かの魔導士は作れなかった。

 だから、いま、ここにいる意識体も自分の名前を忘れている。

「あなたは、なにに寄生しているんですか」

 すると少年の意識体はほがらかに笑って、両手を大きく広げた。

『ぼくがここにいることで、答えになりませんか』
「森ですか。――――かつては紋章に?」
『ええ。ぼくの優秀な子孫が、ここでぼくを解放してくれたんですよ。迫る簒奪者の手から、ぼくを利用し続ける精霊王から。そして、ルークス王族を守らなければならない使命から。あの子は小さいころから、ぼくを視認できる希少な存在で、おまけにとっても優しい子でしたからね』

 さりげなく自画自賛しながら、事実を明かしてくれた意識体である。
 なんとなく、かのアレクセイ王子と通じるところを感じ取りながら、さらにキーラは、思考のなかで推測を進めた。

 物質に寄生せざるを得ない意識体は、寄生した物質に左右される特質をもつようになる。そして意識体へ保存されるはずだった記憶は、寄生した物質に移動できない情報だからこそ、少しずつ、消えていく。

 自らの名前、という情報すら。

 だからいま、目の前にいる存在は、かつての始祖とはいいがたい。名前すら忘れているならば、もう、ちがう存在になっていると考えるべきだ。

 それならば、と、キーラは切り替えた。
 統一帝国時代のくびき、そんなものはとうになくなっているのだと確認するために。

「……その、あなたの優秀な子孫が亡くなられたとご存知ですか」

 ためらいがちに口を開けば、なにがおかしいのか、少年はちいさく笑う。

『知っていますよ。ぼくは森に寄生している。ルークス王国すべての森に集まる、すべての情報をぼくは知っている。それにぼくを解放したとき、あの子自身も自分の死について語っていました』
「アレクセイ王子が?」

 さすがに眉をひそめて聞き返せば、誇らしげに意識体は笑った。

『ぼくはもう、ずるをしないのだと』
「は?」
『ですからね、ぼくに守られて生きるような、ずるをしない世界に行くのだと言っていました。ほかの人と同じ、危険な場所に行く。だから、だれよりもしたたかに賢く育つつもりだから、守り手など不要だと。たとえその結果、命を落としたとしても、それは他の人と同じように、なにかへぼをした結果だから、おとなしく受け入れると言ってました』

 意識体から教えられた、アレクセイ王子の意思がゆっくり浸透していく。

 ――――ぼくはもう、ずるをしない。
 ――――これから先、危険が待ち受けるというならば。
 ――――ぼくは誰よりもしたたかに、賢い存在になって生き抜く。

 かつてそう言い放った少年は、信頼のおける友人を守って命を終えた。

(だったらきっと、あなたは、)

 それ以上は言葉にならない。ただ、懐かしい人が遺した、あざやかな意思がもういちど、キーラのなかにあった最後の屈託をなぎはらう。

 ――――あなたももう少し、賢くなってほしいものですが。

(ごめんなさいね。あたし、まだ脳みそ筋肉のままだったみたい)

 こみ上げる衝動が、キーラの口端を微笑みの形へと導く。

 いろいろな感情。マイナス。暗闇。

 抱えていたすべてが今度こそ、完全に拭い取られた。キーラはちらりと不老不死の男を視界の隅でとらえた。でもいい。もういい。

 どうでもいい。

 なにもかも、前に進むために邪魔な感情は捨ててしまおう。すべて、ここに。

 キーラはただ、精一杯、いまを生きればいいのだ。それだけでいいのだ。許す許されないはどうでもいい。重要な事実は、キーラはここにいる。生きている。それだけ。

 そうして、続く営みの果てに迎える、終わりの瞬間に。

(きっと、逢えるわね。わたしたち。みんなで)

 終わりに至るながい道は、この世に誕生するだれもがたどる道だからこそ、約束するまでもない再会が、すでに決定している。

 いつのまにか、キーラは笑いだしていた。笑いながら、目尻をぬぐう。こっそりこぼれそうになっていた雫まで笑い飛ばして、明るい表情の意識体を見た。やさしいまなざしで見つめている意識体は、全くの別人だけれど、あの少年までも穏やかだと信じさせてくれる。くつろいだ心地で口を開く。

「偽者の王子さまを、認めてくださいますか」

 そしていちばん気になる質問をすれば、意識体は微笑んだ。

『――――あなたの王に伝えてください。他国から押し付けられたモルスは森こちらに運ぶといいと。人々を弱らせるものは。精霊たちすら立ち入れない、ぼくの領地にて預かります。ただ、森に寄生しているだけの存在でも、番人くらいはできますからね』

 要するに、アレクセイを認めるという返事だ。それどころか、もっとも困窮していた物質を預かることによって、味方になってくれるという力強い返答である。

 キーラは滲むように微笑んだ。

 アレクセイ王子とよく似た、目の前の意識体は、もちろんそんなつもりはないのだろうが、まるであの子がそのまま、現状すべてを許しているような錯覚を抱かせる。

(だったら、もういいわ)

 ありがとう、と、つぶやいて、キーラはきびすを返した。