いつかまた。再会を希う心に、資格など無粋です。 (6)

     森の入り口、馬を止めたところまでゆっくりと歩いてきたが、結局、マティアスが追いついてくることはなかった。意識体の前から立ち去る際、ちらりと確認したときには、片膝を立てた状態で座り込んで動き出さないままだったから、絶望なりなんなりしたのだろうとは思う。だが、どうでもいいや、とキーラは結論づけた。

     実質、マティアスのためにはなにもできないのだし、するつもりはないのだろうし。クリスティーナ嬢の元に連れていけない事実だけが悔やまれるが、もともとさまざまな事情から、捕縛も処刑もできない人物なのだ。ならばクリスティーナ嬢には詳細な事情を打ち明ける程度に留めよう。それ以上は、キーラの関与すべきところではない。

     キーラは乗ってきた馬にまたがり、サルワーティオーへと走らせた。

     よく訓練されたもう一頭も、帰還すべく、走り出す。もう、懐かしい声は聞こえない。だからそのまま前を向いて走り続けた。

     一昼夜、途中で休憩をはさみながら走り続け、ようやく首都に着いた。

     人が出入りする門は、かつてパストゥスから入国したときと変わらない。
     もう、アレクセイの即位の式典は終わっているから、街中の祭り騒ぎも終わっている。すっかり日常に戻っているサルワーティオーにて、まずは疲れている二頭の馬を返しに行った。首輪に所有者の紋章があったから、すぐに貸してくれた人物はわかった。馬を酷使した分、追加料金を払わされ(手持ちが足りないから魔導士ギルドにツケておいた)、それだけでは収まらない、馬への愛情にあふれた文句をとうとうと聞かされた。

     ようやく解放されて、次に行く先に迷いを感じた。
     魔導士ギルドか、あるいは王宮か。

     けれど、疲れ切っているはずの足が、いちばん行きたいところに向かって歩き始めた。

     あとで怒られるかな。魔導士ギルドにいるだろう面々を思い浮かべ、くすぐったい感触で微笑む。途中でなじみの屋台を見かける。このうえなく誘惑を感じたが、浮かんだ面影に気を引き締めた。うん、あとで来よう。空腹なんてもう、とっくに通り過ぎているから。そんなことを考えながら、公園を突っ切って、のたのたと歩き続けて。

     そうして、王宮の前にたどり着いた。

    「キーラどの!?」
    「あ、どーも」

     顔なじみになっていた門番たちに、ぺこりと頭を下げれば、露骨に呆れた表情を浮かべられた。ひとりが王宮内へ報告に走り、ひとりが門番たちの控室に案内した。

     まずは休ませなければ、と門番が考えてしまうくらい、いまのキーラはひどいありさまだったらしい。これまでの情報を交換し、かたい木椅子に座り込んだところで、荒々しく控室の扉が開いた。午後の光を背後に控室の入り口に立った人物は、おかしなことにそれ以上、こちらに近寄ってこない。

    「陛下?」

     いぶかしげな声で、門番のひとりが呼びかける。ぴくりと揺らいで、それでも。

     ごく自然に微笑んだキーラは立ち上がり、酷使したおかげで引きずってしまう足を動かして、入り口に向かった。ゆっくりと見えてくる、アレクセイの表情。完全に表情を消している理由は、怒っているからか、心配しているからか。

     どちらでもいい。告げる言葉は決めてある。

    「ただいま、王子さま。無事、帰還しました」

     満面の笑顔でそう告げたとたん、わずかにアレクセイは身動いた。

     ふわり、と肩に重みがかかる。うなだれるように、表情を隠すように、アレクセイが額をキーラの肩に押し付けたのだ。思わず視線を動かしてアレクセイを見返した、その視界の隅っこで、控室に残っていた門番が出ていくさまが見えた。

     二人きりになって、けれど、それでもアレクセイは何も言わない。

     降りた沈黙が少し居心地悪くて、すぐ近くに感じるぬくもりやにおい、柔らかい髪の感触などにどこか逃げ出したい心地にもなって、わずかに身動きすれば、ふ、とかすかに空気が震えた。アレクセイが笑ったのだ。

    「……マーネの守護者たちもロジオンも、ニコライどのもスキターリェツも、チーグルや団長、キリルやセルゲイまでも。……みんな、手ぐすね引いてあなたを待っていますよ。帰ってきたらお仕置きするのだ、と言っていますから、覚悟しておくんですね」

     ぶるっと肩先が震えた。逃げ出したいのに、逃げたくない。矛盾する。ふたつの衝動はしばらく対抗して、たったひとつだけの衝動が残った。いま、ここに、キーラのいちばん近くにいる人はどうだった、と訊ねたい衝動がつよく。

    (ほんの少しでも、あたしを想ってくれた?)

     案じてくれていたのだとわかる。いま、わかった。でも、ただ、心配だけだろうか。それ以外に、なにかありはしないだろうか。どこかしびれているようにも感じる指を握りしめ、強く強く、主張を続ける衝動のまま、キーラは一生分の勇気を振り絞った。

    「……王子さまも、あたしを待っていてくれた?」

     せいいっぱい勇気を振り絞ったのに、情けないことに声は無様に震えた。

     短くない沈黙が落ちる。アレクセイは動かない。逃げ出したい気分は最高潮だ。でも。

     そうですね。やがて耳元で響いた声は、本当にギリギリの大きさだ。

    「待ちましたよ。――――隣にいてほしい人は、あなただけですから」

     そのままの声量で聞かされた言葉に、キーラは目を見開く。

     つめていた息を吐き出して、ふにゃりと唇が崩れる。
     微笑みの衝動だけではなく涙の衝動まで襲い掛かってきたものだから、本当に浮かべる表情の選択に困ってしまった。うれしいのに、どうしよう、と感じる。

     それでも、よかった、と、つぶやくように告げて。

    「あたしもね。とっておきのお茶は、あなただけに淹れたいの」

     好きな人に紅茶を淹れる。キーラの手は、きっと、そのためにある。

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