慶福観の道姑 一

     庭に足を踏み出せば、ふわりと温められた空気が頬を撫でる。

     唇がきゅ、と弧を描いた。ほんの少し前まで、骨に沁みるような寒さだったのに、本当にこの陽気は何事なのだ。思わず浮かれて、街に飛び出たくなるじゃないか。そういえばどこだったか、梅がいよいよ見頃だと聞いた。

     まさしく花見日和なのだ。

     ぐるりと視線を巡らせれば、あちらこちらに、ほころびかけている緑の芽が見える。この慶福観の前庭にはさまざまな緑が植えられているが、中には、雑草も混じっている。それを引き抜くのが、春蘭の今日の仕事なのだが、サボってしまおうか、という気持ちになっている。

     なぜなら、早春のこの時期、雑草といえど、芽はたいそう可愛らしいのだ。

     ちょびちょび、と地面から突き出た雑草は、本当に他の草とは区別がつかない。そもそももっと育ったほうが、引き抜く方が便利であるし、と、言い訳を脳内で並べる。

     前庭の雑草を抜け、と、春蘭にいいつけてきた人物は、真面目な性格をしている。というより、頭が固いのだ。理由もなきサボリなど、決して容赦しないだろう。

    (それでも、まあ、掃き掃除はしておきますか)

     ぐるりと庭を見渡して、春風に吹き落された葉っぱに気づく。このくらいは片づけておかないと後で困る。庭の端に移動して、手に持っていた箒を動かし始めた。動いているうちに、うっすらと汗がにじむ。

     動きを止めて、くるくると袖をめくった。紫外線対策、という言葉が脳裏をよぎったが、いまさらだ、と開き直る。シミやそばかすが怖くないわけではないが、この一年、まったく無視してきたのだ。気にしても仕方ない。  ただ、庭の泉が視界に入ったとき、ちょっと覗いてみようか、という気持ちになった。

     この道観に鏡はない。だから自分の姿を確認したいときには、その代わりになるものを覗き込むしかない。水を張った桶とか、澄み切った泉とか。細部までわかるわけではないが、意外に代用品として役に立つ。

     箒を持ったまま、泉まで近づいた。ひょいとのぞく。

     つるんとした額が子供っぽい印象を与える、十五、六の少女の顔が水鏡に映る。ほどけば肩を超える長さの黒髪を、きっちり後頭部にまとめているから顔のまろやかさが目立つ。色が白く、瞳がぱっちりとしたかわいらしい顔立ちだが、いまは、むっと唇を結んでいた。

    (相変わらずの童顔。少しは大人っぽくなってくれてもいいのに)

     シミやそばかすの兆候を見るために覗いたはずだったが、目に映った「自分」の顔の幼さが先に目についた。一年前からまったく変わらない顔だ。成長期なのに、という心の中の呟きには少しの畏れが混じっている。

     ーーーー春蘭には、生まれ落ちたときからこの歳になるまでの記憶がない。

     三年前。気づいたら、ここではない場所に倒れていた。場所が場所だけに不審者として扱われたけれど、詰問されても、自分の名前も年齢も、故郷の名前すら答えることができなかった。

     春蘭という名前はのちに保護者になってくれた人につけてもらった名前だ。かわいらしい花の名前。気にいっているし、なじんでもきた名前だけれども、いつも、かすかな違和感がある。これはあたしの名前じゃないと感じるのだ。記憶を失っているからつけられた仮の名前。そう、わかり切っているのに、しつこい違和感が、ざらりと心を引っかく。ふつふつと毎度の不安もこみ上げてきたものだから、頭を振って地面から立ちあがった。

     仕事に戻ろう。

     そんなとき、男と女の言い争う声が、耳に飛び込んできた。何事かと音源をたどれば、かろうじて朱色が残っている柱に辿り着く。慶福観の門柱だ。敷地内に入ろうとする女と、させまいと女の腕を掴む男がもみ合っていた。

     春蘭はためらって、でも結局、二人に駆け寄った。邪魔になるかもしれないが、万が一のためにも、箒を持ったまま動いた。近づくにつれて、二人のやり取りはだんだんと大きくなる。興味を抱いたのは春蘭だけではないようで、訝しげに野次馬がぽつぽつと足を止め始めていた。

    「だからっ、今度こそ心を入れ替えてやり直すと言ってんだろォ!」
    「信用できないねっ。いままでに何度その言葉を言ってきたと思っているのさ。仕事もせずに、賭博や女遊びばかりして。それだけならまだしも、ついにあたしに暴力をふるったねっ? 別れてやる、徹底的にきれいさっぱり別れてやるよっ。だからさっさとその手をお放しっ」

     ひょろりと細身の男と、ぷくりとふくよかな女のやり取りである。

     男は職人だろう。農夫には見えないし、商売人といった風体でもない。着古した感のある衫をまとい、髪は一応巾にまとめているが、ほつれている。顎のあたりに無精ひげが生えているのが、なんだか不潔そうな印象だ。

     一方、女はきちんと清潔そうな格好をしている。髪も綺麗にまとめているが、もちのような肌に化粧気はない。典型的な庶民の奥方だ。脇に風呂敷を抱えていることが奇妙といえるだろうか。だが状況的に不自然ではない。

     つまり。

    「出来るわけねえだろっ。人の話を素直に聞いたらどうなんだっ」
    「なんだってえ? 今まであたしの話を聞かなかったひとに言われたかないねっ」

     夫婦のもつれ話だ。
     家出しようとしている妻と、引き留めようとしている夫。

     集まっていた野次馬は、適当なヤジを飛ばしている。
     この街路の先に進めば、もっと面白い見世物があるだろうに、物好きなことだ。

     ただ、道観の関係者としては同じ態度ではいられない。

     春蘭は、二人の傍にさらに近づいた。しかし自分にまったく気づかない二人に、どうしたものか、と思案する。

     世の中には様々な夫婦の形がある。他人から見ればとんでもない諍いであっても、当の夫婦にしてみたら、ただの痴話喧嘩だったりすることもあるのだ。いくつかの手痛い実例を思い出して考えていると、女が春蘭の存在にようやく気付いた。

    「あっ。道姑さまだね? あたし、ここでご厄介になりたいんだけどさ」

     おやまあ、珍しい。

     ここは確かに事情のある者を預かることがあるが、建物のあまりの古さに引き返す者も多いのだ。ところが女は、慶福観の外観を見てもためらう様子を見せない。

     一応は駆け込み寺のような役割を果たす場所ではあるし、女性が本当に困っているなら加勢しないわけにはいかないのだが、厄介なことになったなあと考えていると、男が口をはさんできた。

    「止めろっていっているだろ! あ、なんでもありませんから、気にしないであっちに行ってください。……ほら、帰るぞ!」
    「なにいっているんだい。莫迦なことはおやめ。いいから、お放しよっ」

     そういって、女が男の腕を振り払った。男は簡単によろめく。

     この二人、どう見ても妻らしき女のほうが強い。なんだか夫に加勢したくなるのは間違っているだろうか。

     だが、そのとき状況が変わった。男が右手を振り上げて、女を殴ろうとしたのである。

     それまでの思考をすべて放り出して、容赦の必要なし、と、春蘭は瞬時に判断した。持っていた箒を振るう。いささか見栄えのしない武器ではあるが、この場合、充分に役目を果たしてくれるだろう。

     ぶんと風を切る音が響く。

     女の腕を掴み直して、手を振り上げていた男は、その音を聞き取って、慌てて逃げた。箒による災難から逃れて一息つこうとする、その合間に、春蘭は男と女の間に滑り込んだ。唖然と女が口を開いているさまが、視界の隅に映る。

     男が態勢を整え直すより先に、女を庇う態勢になって、春蘭は、びし、と箒をつきつけた。棍ならともかく箒だから、いささか迫力に欠ける有様である。

    「この、甲斐性なしっ」

     よりにもよって、自分より年下の娘に決めつけられたからだろう、男の顔が引きつった。

    「ただの口喧嘩までなら見過ごすつもりでした。でも、あたしの前で、奥さんに対して暴力を振るおうとしましたねっ? 最低です。ドメスティックバイオレンスは決して許される行為ではないんですよ!」
    「なんだい、そのどめ、なんとやらは」

     背後に庇った女が、ぼそりと突っ込む。無理もない、この言葉は春蘭の故郷にある言葉だ。だが理解されていないことなどお構いなしに、春蘭はさらに言葉を続けた。

    「事情はだいたいわかりました。奥さまは、この慶福観がお預かりします」

     男は口をがこんと開き、悲壮な顔つきになる。その顔を見た女が、「あんた……」と呟いたものの、言葉の勢いに乗ってしまった春蘭の口は止まらない。

    「クソ真面目な道士に仕え、朝から夜まで道観の手入れや食事の支度に追われ毎日へとへとにくたびれる毎日ではありますが、あなたのように、妻に暴力をふるう夫に仕えるよりは、はるかにましな毎日でしょうっ。さあ、ご理解いただけましたら、とっととお帰り下さい。まったくあなたのように、貧相で頭も悪く甲斐性もない中年男が、」

     女を不幸にするんですよ、と言いかけたところで、春蘭は言葉を止めた。背後からどつかれたのだ。思わず振り向けば、怒りに瞳を燃え立たせた女が春蘭を睨んでいる。

    「あんたさ、……人の亭主をそこまで罵倒することは、ないだろっ」

     いい放つなり、女は春蘭から箒を取り上げ、ばきっと半分に折った。竹の箒を、気合いひとつで折ったのだ。残っていた野次馬たちが、おお、と歓声を上げ、春蘭はたじろいだ。

     かなり本気で慄いていると、女は荒々しく鼻息を吹き、ぽいと箒を放り出す。そのままずんずんと敷地から離れていく女を、男は慌てて追いかけて行った。見世物が終わったためだろう、野次馬たちも散っていく。

     春蘭はポツンと残され、やがて折られた箒を拾い上げて、眉を下げた。

     毎日使っている、愛用の箒だ。
     見るも無残なありさまだが、しばらくしてから、軽く肩をすくめた。

     まあ、めでたしめでたしだ。

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