前庭と本堂を抜けたところ、中庭の左手側に二階建ての建物がある。

 修繕を重ね、ずいぶん古ぼけた印象のある建物が、春蘭たちの暮らす家屋である。ぼろぼろではあるが、日々の努力のおかげで、なんとか住みやすい場所になっている。住み始めた当初は、床は腐っているわ、屋根の瓦は落ちているわ、本当にぼろぼろだったのだ。

 前庭掃除を終えた春蘭は、台所兼食堂に向かった。そろそろクソ真面目な道士が戻ってくる頃であるし、昼食の用意をしておこうと考えたのだ。すぐ外にある井戸から水を汲んで、かまどの上にある大鍋に水を張る。かまどに火を入れて、用意した材料を放りこんだ。火加減に気を配りながら、今度はニラと卵、もやしを作った野菜餃子を作り始める。

 この一年間、いやというほど繰り返してきた作業だ。考えるより先に、身体が動いてくれるようになった。

 やがて粥が炊きあがり、野菜餃子も結構な数を包み終えた。ふっと顔を上げた。
 気配が伝わったのだ。唇に微笑を浮かべたとき、がらりと戸が開いた。

「ただいま戻りました」

 涼やかな声で告げたのは、慶福観の主である美青年である。
 名を颯懍と言う。

 ただし黒絹のような髪を巾でまとめ、青磁の衫をまとった姿は、とても道士には見えない。どこかの名家の若様といえば納得できるような、品の良さが漂っている。まあ、台所に並んでいる料理を見て、瞳を輝かせるありさまは、若様というより子供のようではあるが。

「いい匂いがすると思えば、わたしの好物ですね。ありがとうございます」

 袖をめくりながら、なにか手伝うことはありませんか、と訊ねてくる。ちょっと思案して、粥の塩加減を任せることにした。にっこり頷いて鍋の前に立つ、すらりとした後ろ姿を見つめて、こっそり春蘭は首を傾げた。

(おかしいな、雑草を抜いていない前庭を見ているはずなのに?)

 いつもなら食堂に入ってくるなり、きりきりと叱り飛ばしてくるはずなのだ。きらきらしい外見に似合わず、中身は小姑、もとい、たいへん生真面目な彼であるから、いちばんに追及してくるはずなのに、と首をひねる。

 だが、しばらく様子を見ていても、怒りだす様子はない。それどころかむしろ、ご機嫌な様子さえ漂っている。

(野菜餃子が効いたのかしら)

 訝しく思いながら、餃子を調理するために隣に並ぶ。

 惚れ惚れするほどうつくしい横顔をちらちら眺めながら、それでも前庭のことを口にはしない。やぶをつついて蛇を出すのはまっぴらだ。

 ところが、くす、と、笑声が響いて、意地悪そうな眼差しが春蘭を見る。

「さっきからやけにわたしを見ているようですが、なにかいいたいことでもあるのですか」
「あ? あーっと、なんだか、ご機嫌だな、と」

 前庭のことには触れないように。
 気をつけながら、ブナンな言葉を選んで口にする。

 そういえばどこに行っていたのだろう。わずかに眉を寄せて考える。急な用事が入った、と、だけ告げて(前庭雑草抜きもいいつけて)出かけて行ったが、実は珍しいのだ。

 なにしろ、これだけの美貌であるから、街を歩いていても人の注目を集める。絡まれることもある。それらの面倒を嫌がって、たいていの用事は春蘭にいいつけることが多い。引きこもり、と、春蘭が悪態をつく所以である。

「そうですね。きっと春蘭にも喜んでいただけるお話だと思いますよ」

 意味深に言葉を切って、目を瞬いている春蘭の反応を楽しむように微笑む。

「『華心玉』の手掛かりがつかめました」

 一拍置いて、春蘭は大声を上げていた。

 華心玉とは、ある金剛石に与えられた名前である。ただ、特別に名前を与えられていることからわかるように、当たり前の宝石ではない。鶏卵ほどに大きく、大輪の華のように見える内包物を含んだ宝石なのだ。

 ただ、華心玉の価値は金額的なそれだけではない。長い歳月、伝説の秘境・崑崙を統べる女神、西王母が身につけていた品であるため、女神の霊気までも宿すようになった、宝貝(秘密兵器)的な宝石なのである。

 そして一年前、厳重に収められていた華心玉は、崑崙に忍び込んだ賊によって盗み出された。崑崙においても絶大な霊気を宿していた宝石である。人間たちが住まう場所では大きな災いのもとにもなりかねない。そこで訳あって崑崙に滞在していた春蘭と颯懍に華心玉奪還の命が下されたのである。

(長い歳月だった……)

 春蘭は思わず調理の手を休め、崑崙からこの京師に落ち着いてからの日々を思い出す。

 崑崙では客人だったため、毎日の雑事は崑崙の仙女たちが片付けてくれていた。だが、京師に仙女たちはいない。だから毎日の雑事は自分で片付ける羽目になった。 当然といえば当然だが、それまで住み慣れていた場所とはあまりにも違いすぎる生活形態にずいぶん失敗したものである。かまどの火加減を間違えて、鍋底に穴を開けて颯懍に叱り飛ばされるなんてことは、日常茶飯事だったのだ。

「これで貧相な食生活ともおさらばできるのね」

 わざとおどけるように呟けば、器用に片眉を上げた颯懍が調理の手を止める。

「心外ですね。わたしの好きな野菜餃子になにかご不満でも?」
「不満というより、同じ野菜料理でももう少し食べた気分になる料理を食べたいというか」

 思わず正直に言い返せば、颯懍の眼差しに険が宿る。

 あ、まずい。うっかり本音を漏らしてしまったが、颯懍の好物をけなしているようにも聞こえる言葉を言い放ってしまった。慌てて言葉を探し、閃いた言葉を口にしてみる。

「いや、美味しいのよ。野菜餃子、辛味のある野菜でバリエーションを増やせるところも奥が深いし、調味料によっていろいろな味が楽しめるところも嬉しいよね。でも、たまには別の味も食べてみたいなあって。ほら、成長期だし!」

 ゆるゆると眼差しから険が消えていくさまに安心して、最後に余計な言葉を付け加えてしまった。
 そうですね。言いながら颯懍は、唇の端を持ち上げる。

「そういえば、あなたは成長期でしたね。特にお腹とか」

 ざくっと突き刺さるひとことに、一瞬、言葉を失った。
 だが怯んでしまった不覚を取り戻すように、反論を言い立てる。

「じかに見たことがないくせに、お腹がどうの、言わないでよ! 野菜生活と棍の修業のおかげで前よりずいぶんスリムになったんだから!」
「でもその修行だって最近さぼりがちですよね。元のぷっくりお腹に戻るのも近い内ではないかとわたしは予測しています」
「勝手な予測すんな! そもそもその発言、セクハラという自覚、ある? 乙女の身体的欠点を上げ連ねるなんて、道士以前、男として最低の行為なんだからっ」
「せくはらとやらの意味はわかりません」

 いけしゃあしゃあと颯懍は答える。
 嘘つけ、とぎりぎり睨んだ。

 相手はたいそう頭のいい人間なのだ。これまでセクハラの意味を教える機会はなかったが、春蘭の反応からニュアンスで理解しているに違いない。

 とにかく、と会話の流れを断ち切る調子で、颯懍は大鍋をかまどから台の上に移した。木製のふたを取れば、ふわりと良い匂いがする。

「先に食事にしましょう。食事を済ませてから、詳しい話をします」

 まあ、もっともな言葉である。

 不完全燃焼の不満を抱えながら、しぶしぶ蒸し器に視線を戻した。盛んに湯気が立っている。そろそろかな、と、火にかけた時間を思い出して、こちらも台の上に移した。竹製のふたを取れば、ふわりとにんにくの匂いが漂う。

 にんにくの量を多めにしたのは正解だ。
 とても美味しそう。

 傍らでは颯懍が皿を並べ、粥を注いでいる。春蘭は調味料を取り出して、野菜餃子の皿に添えた。かたんかたんと向かい合うように座って手を合わせた。

「いただきます」

 二人唱和した後、しばらく無言で食事を進める。

 あつあつの粥は、野菜のうまみと干し貝柱のうまみが沁み出ていて、しみじみと空腹に嬉しい味わいだった。ほのかな塩味も嬉しい。これは味を調整してくれた颯懍のおかげよね、と先ほどまでの腹立ちも忘れて、にこにこと顔をゆるめる。

 春蘭の笑顔を見た颯懍は、苦笑を浮かべた。

「まあ、崑崙の生活と比べれば、たしかに貧相な食生活ではあります」

 申し訳ありませんでしたね、と告げられて、春蘭は指を止めた。

 颯懍を真面目な人間だ、と思うのはこういうときである。
 先程のやりとりはただの口喧嘩、どちらも本気ではない。

 それはまあ、お腹のことを言われたときにはかなり本気でかちんときたけど、そもそも冗談交じりで食生活への不満を言ってしまった春蘭にも非はあるだろう。稼げる技能を持つ颯懍がいなければ、この一年間、行き倒れになっていたことは間違いないのだし。

「わたしも言い過ぎたから、気にしないで。それより、華心玉の手掛かりってどういうものだったの?」

 真面目な人間だから、大切な話を持ちかければ、そちらに意識を向けるだろう。

 軽く企んで言葉を継げば、思考を切り替えたらしく、きり、と表情を引き締める。わざわざ箸を持つ指を止めて、春蘭に視線を合わせてきた。まず、と改めた口調で告げる。

「華心玉の持つ性質から、わたしたちは率先して事件に接触してきました」
「うん。常人では起こせない事件を探ってきたよね」

 これまでに関わった事件を思い出しながら、春蘭は相槌を打った。

 失踪した名門の令嬢にまつわる事件、枯れた井戸にまつわる事件、京師でも一、二を争う飯店にまつわる事件、などなど。 だがいずれの事件も唯人の手による事件だったから、がっくりさせられたものだ。

「数々の失敗を踏まえて、わたしは視点を変えてみることにしたのです」
「視点?」

 颯懍は食事の手を止めているが、春蘭は気にせず野菜餃子を口の中に放り込んだ。もぎゅもぎゅと口を動かせば、ふわりと野菜の風味が広がる。ぴりりとした調味料の味も満喫して、こくんと飲み込む。

 春蘭の旺盛な食欲につられたように、颯懍の指も動いて、野菜餃子を口に放り込んだ。しばらく間を置いて、いささか気恥ずかしげに言葉を継いだ。

「ですから、華心玉を盗み出した賊の視点で事態を振り返ったのです」

 なるほど、プロファイリングか。
 ひらめいた単語に導かれるように、颯懍が告げる内容が理解できた。

「この一年間、なぜ、華心玉に気付かなかったか、ということを考えたのね」

 春蘭の言葉を聞いて、颯懍はにっこりと微笑んだ。

「つまり、相手が何らかの力を使って、華心玉の霊力を封じ込めているということ?」
「……いえ、すでに華心玉の霊力は抜き取られていると思います」
「それじゃあ、華心玉を見つけられないということになるけど」

 提示された可能性を聞いて、眉をひそめつつ最悪の事態を告げる。だが、春蘭の言葉を聞いても揺らいだ様子のない颯懍を見つけて、目を大きく見開いた。

「見つかった、んだ?」

 おそらくは、特徴的な霊力を抜き取られ、ただの珍しい宝石になった、華心玉を。

 ふっと薄い唇が微笑を深める。自信が伝わってくる微笑みに、春蘭は口をぽかんと開けた。

 いつの間に。

 昨日まではいつも通りの引きこもり生活だったはずだ。ことさら探索に時間をかけた様子を見かけてはいない。細長い指が伸びて、春蘭の額をつついた。

「そうして口を開けていると、いつも以上におまぬけに見えますよ?」
「いつも以上は余計だ」

 とっさに言い返して、けれどワクワクと期待を抑えきれない調子で訊ねた。

「どこにあったの?」
「どこにあったと思います?」

 焦らしてくるなあ、と、思ったが、このやりとりに付き合うのは悪くない。
 人差し指をこめかみに当てて、クルクル回す。そうしながら、相手を観察して口を開いた。

 道士としてではなく、普通の若者としての格好だ。
 それを街に紛れるための格好と考えるなら。

「どこかの大店?」
「違います」
「どこかの貴族さんち?」
「惜しい。いいところをついてますよ」

 適当に言った言葉を褒められても、理由がわからないだけにまったく嬉しくない。
 パッと両手を広げて「降参」と告げれば、くすりと笑って端的に答えられた。

「王城ですよ」

 王城ーーーー京師の中央にある城。この国を治める皇帝が座す場所だ。
 なあんだ王城かァと応えかけて、とんでもない答えに半目になってしまった。

 平然としている男を、思わず睨めつける。

「王城の、宝物庫?」

 否定を期待したのに、颯懍ときたら、ニッコリ満面の笑顔を浮かべやがる。  思わずガシガシと髪をかき乱して、春蘭は唇をへの字に結んだ。

「どうすんのよ、そんなところ……」

 王城の宝物庫がどういうものなのか、詳細を知らないけれど、王城なのだ。セキュリティの厳しさは簡単に想像できる。交渉はもちろん、盗み出すなんて不可能だろう。

 そう考えたが、待てよ、と思い直した。

 目の前の男は、それっぽい場面をほとんど見せないが、崑崙の住人だ。春蘭とは違う。こういう時にこそ役立てる、なにか不思議な能力があってもおかしくない。

 ところが、颯懍はあっさりと春蘭の期待を裏切ってみせた。

「術も使えませんしね」
「使えないのっ?」
「試してみましたが、さまざまな問題があると気づきました」

 そう言って指折りながら、問題点を挙げていく。

 いわく、人の目に触れずにものを持ち出す術には制限があること。
 いわく、術式を使った盗難を防ぐ結界がはられていること。

「最後に、宝物庫に収められた以上、どんな宝も皇帝の持ち物として目録に掲載されています。目録に記された宝が無くなったとなると、管理している者が罪に問われるでしょう。それは、さすがに良心が咎めます」

 もっともな言い分に、春蘭は神妙な気持ちになった。

「そっか。そうだよね」
「とりあえず、王城の宝物庫にある限り、悪者に利用はされません。その点だけでもわたしはよしとすべきだと考えました」
「それはそうだけど、でも、現実にどうするつもり? 華心玉の保護がわたしたちの目的じゃない。奪還が目的なんだよ?」

 問い詰めれば、颯懍はにっこりと笑う。

「ですから、考えました。華心玉を皇帝に返してもらうにはどうしたらいいのか、と」
「まさか正面堂々、返してくださいというの?」

 崑崙からの派遣された人間だと言ったところで、門前払いされるだけだと春蘭は思う。

 神話の時代ならば、崑崙にはそれなりの信憑性があったのだろうが、今の時代は、道士は受け入れられても、仙人まで受け入れられる時代ではない。春蘭同様、そのあたりを理解している颯懍は、「まさか。そんなことはしません」と春蘭の発言を否定して。

「手柄を立てて、下げ渡していただくんですよ」

 いかにも名案を思い付きました、と言わんばかりに言い切った。