朝、身支度を整えて朝ごはんを食べてからSNSをのぞきます。
わたしはSNSを見ることが好きです。いろいろな意見やいろいろな生活が目に入ってきて、「ほえええ」と感心してしまうから。最近はダイエットやメイクの情報を調べることが増えてきてね、先人の工夫や知識や、打算なく公開される情報に感心します。
世の中は広いなあ。いろんな人生があるんだなあ。
頑張っていたつもりだったけど、わたしってまだまだだなあ。
そんな気持ちになって、「よしっ」と気合が入るのですよ。
もっとも最近はギュッと全身が萎縮してしまうような、心が痛む内容も目に入ってきます。いいねやRTもためらわれる内容です。そういう内容を心に留めながら、自分の生活に戻るとき、わたしはむかし、霊視のできる友達に言われたことを思い出します。
いわく、みどりちゃんの運命の人は外国の人だよ、とのこと。
正確には、結婚するのは外国の人だよ、と言ってくれたのですよ。そうなのかーと素直に受け止めた記憶があります。そう言われてしまうと、現金なものですね。いろいろな国に興味を持つようになりました。アジアやヨーロッパ、アフリカなど、とにかく日本以外の海外です。英会話を教わったこともあるのですよ。残念ながら身についたとは言えない結果でしたが、ワクワクしてました。海外で暮らすようになるのかな。無邪気に想像してもいました。
そんな出来事から、月日は流れて、わたしは四十歳代に突入しました。
さすがに、無邪気に結婚を夢見ていられる年齢ではありません。や、五十歳代になってから結婚した友人が身の回りには多いのですけれど、それはそれとして現実的な算段をしなければならないでしょう。ましてやわたしには持病がある。生活を続けるには現実的な計算も忘れないように、ちゃんとした生活を送らなくちゃ。だから今日も家事を進めていたのですけれど、そんな作業を行いながら頭の中は自由に考えているのです。そうして閃くのです。
もしかしたらわたしの運命の人は、海外で戦っている最中かもしれないな、と。
日々の苦しみはあれど、命が脅かされる可能性は低い日本でわたしは暮らしています。そして一生を一緒に過ごすはずだった運命の人が外国の人だというなら、今、この瞬間にも日本以外の国で暮らしているのでしょう。今、確かに厳しい状況が発生しています。でもそれは、今に限ったことじゃありません。ずっと前から、平和ではない地域は存在しているのです。そうでなくても、平和な国にいたとしても、もしかしたら病気や事故で命を失っている可能性だってある。ああ、もちろん結婚している可能性だってありますね。
そう考えると、運命の人という単語は頼りないです。
たった一人しかいないなんて、そんなこと、絶対にないような気もしてきます。だって一人きりなら失ってしまえば、残された人は一人で生きるしかないでしょう。運命って、人生って、そんなに取り返しのつかないもの? そうじゃないような気がするなあと考えを進めたわたしは、だから「運命の人は一人じゃない」とか「運命の人が存在する人はごく少数だ」という意見に頷いてしまうのでした。たぶんきっと、運命ってそんなに存在しない。存在するとしたら、これを運命だと決める、自由意志なんじゃないだろうか。そう、思うのです。
でも、と、思考が戻ります。
そんなふうに、わたしが選ぶはずだった人は海外にいるのかもしれない。わたしの性格や事情はいずれ海外の人を選んでいたのかもしれない。これから選ぶのかもしれない。人間よりもっと大きなものに決められた運命ではなくても、ちっぽけなわたしが自由な意志のまま選ぶ人が、今は海外にいるのかもしれない。そうしてもしかしたらその人の故郷は今、戦いの中にある国なのかもしれない。その人はもう亡くなっているのかもしれない。愛する人を失って、深い絶望の中にあるのかもしれない。この先を生きる気力を失うのかもしれない。
だから飛躍して、わたしは戦いの終着を、世界平和を望みます。
生涯巡り会えることがない人かもしれません。この先に会える人かもしれません。何もわかりません。わからないから、今、わたし自身が大切にしている自分と同じように、毎日当たり前の生活を生きている人が、この世界で生きている人みんながそれぞれ、苦しみ悩む瞬間があっても人生の喜びを満喫できる、そんな人生を歩めるようにと願い、祈らずにはいられなくなるのです。
大切にできたはずの人が今、この瞬間にも大切にしている人たち。その人の友人や家族、知人や顔なじみの人たち、失われてほしくないと感じるすべての人が。もしかしたら将来巡り会って親友になれるかもしれない、たくさんの人がどうか、無事でありますように。
こんな思考で世界平和を願うわたしは、本当にちっぽけで卑近な存在だなあ。実感します。
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