両極端な思考。

    郵便ポストをチェックしたところ、喪中ハガキが届いていました。

    今年はこれで三枚目です。すでに印刷した年賀ハガキを出さないように注意しなくちゃ、と考えました。正直なところを言えば、家族を亡くした方にこそ、「ゆっくり休んでね」「無理はしないで」という労りのハガキを出したいところです。でもそういう風習はないからなあ。

    この先、わたしが喪中ハガキを出すことはもうありません。

    家族全員、看取りましたからね。まあ、友達がときどき言ってくれるように、この先、何らかの出来事で家庭を持つことになったら、と考えることはありますけれど、現状の延長にそんな出来事が待っているとはとても思えません。悲しいとか切ないとか、そういう気持ちで現状を捉えているわけではなく、単純にそう考えてるだけです。再び家族を持ちたいという強い気持ちがあるわけでもありません。

    ときどき、「どうして最後に生き残ったのはわたしなんだろう」と思うときだってありますが、それはよっぽど精神的に落ちたときですね。お腹が空いているとか疲れが溜まっているとか、そういう不調がマイナスを連れてきて、やたらと落ち込ませたいときなんですよ。

    なのでスルーします。

    そもそも最後に生き残った理由は明確で、わたしが最年少だったからです。順当な結果なんだからしかたねえ。最後になりたくなかった、と言っても、じゃあ最後になったことで味わった苦労を、他の家族にさせるのか、と思いつけば、「それはちょっと」という気持ちにもなります。わたしは患った病気のせいで、家族を悩ませました。この上さらに、というのはさすがに問題でしょう。

    だから、喪中ハガキを受け取って死を思い出すとき、わたしが連想するものは自分の死なんですよ。

    人生100年時代とも言います。だとしたら、わたしが死ぬまで、あと何十年かかるか。普通に考えて、これまで生きた以上の時間がかかります。たまたま両親は早くに亡くなりましたが、わたしも同じだとは限りません。だから無茶せず無理せず、そろそろと自分の人生を歩まなくちゃ、と感じます。

    同時に、そうかこれまで生きてきた以上の時間を、まだ生きることができるのか、とも感じます。

    もう、プレ更年期を過ぎました。そういう年齢だから、落ち着かなくちゃ、年相応にならなくちゃ、という気持ちがあるのですけれど、でもまだ、残り時間は長い。かもしれないのです。

    一般に、物事を習得するには10年の歳月が必要だと言われています。普通に考えて、とても長い期間ですが、人生の残りを考えてみたら、「たったそれっぽっち?」という気持ちにもなります。だからまだまだ挑戦してもいいのだと思います。だからまだまだ、諦めないでもいいのだとも思います。

    小説を書くことを、たとえ才能がないと感じていても、まだまだ諦めないでもいいのだと思うのです。

    結局、わたしの思考はそこに落ち着くのだなあ、と苦笑しながら、そばに丸まっている愛猫をなでこしました。ペロリと指を舐めてくるこの子とはすでに10年、一緒に過ごしています。

    あと10年、一緒にいたいですね。

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