ceremony

とびきり綺麗にしてください、と、美容院に飛び込んだ。
外にある値段表を見て、いままで気後れしていたところだけど、「かしこまりました」とだけ答えてくれたことにほっとする。でも初めての美容院だから勝手がわからない。少し迷い、時間にかなりの余裕があったものだから、シャンプーから始めてもらうことにした。

「ではこちらに」

導かれるままにわたしは移動する。椅子に横たわり、まぶたにタオルがかぶせられた時、ふわりとした優しい感触がじんと心に触れた。そして温かな水をかけられ、髪を洗われていく。その力強く、けれど気遣いに満ちた手つきに彼を思い出していた。これから逢う彼。何日ぶりだろう。

いま、着ている服は、数日前友人に勧められて購入した服だ。いままで購入したことのない種類の服は、絶対に似合うから、という言葉通りに、わたしの気持ちに寄り添った。まるで別人だ。

――もっと別人になりたいと思う。もっと、……もっと。

やがてシャンプーを終えた頃には、気持ちが落ち着いていることに気付いた。
次は大きな鏡の前に座る。まるで幼い私。

「どのような髪形になさいますか」
「切ってください。でもこの服に似合う程度の長さに」

女性のわたしから見ても美しいと感じるその人は、一切、余計なことを云わない。ただ微笑んで、「かしこまりました」と云ってわたしの髪をすくってくれる。

ここには他の客がいない。時折濡れた、車を走る音が聞こえる。心地よい空間だ。

丁寧に、長いだけの髪を大切に扱われる。しゃきり、と髪に鋏が入った。少しまぶたを伏せる。
どのくらいの長さになるのだろう。思えば変なリクエストをしてしまったものだ。でもそれは初めからそうだったか。とびきり綺麗にしてください、だなんて、普通云わない言葉じゃないかしら。

鏡の中のわたしが少しだけ赤面して、けれど少しずつ変わっていくことに目をみはる。髪を切っていく程度で変わっていくとは大げさかもしれない。けれど変わっていく。そうして変わっていきたい。多分、これが彼と会う最後の刻だから。

――さようなら、と告げるために、わたしを呼びだすのだろう彼。そんな律義なところが大好きだった。ううん、まだ過去形ではいえない。いまでも好ましいと思っている。

別れを切り出す彼に会うために、とびきり綺麗になる。それは未練というのだろうか。

違う、と呟く心の声は案外強くて、ようやくわたしは少しだけ笑った。彼の意思が固いこと、よくわかっているもの。そう思ったとたん少しだけ涙が滲んだ。瞬いて散らす。

髪はかなりの長さが切られている。それでも新しく選んだ服に似合うことが嬉しかった。

「お化粧もされますか」
「お願いします」

やわらかな女性の指がわたしの頬に触れる。化粧なんていつも我流だ。だから期待が高まる。
わたし、綺麗になれるんじゃないかしら、変わっていけるんじゃないかしら。

彼の心を取り戻したい、そう思わないとは云えないけれど、無理をしている彼の隣にいたくない。
ではどうして綺麗にするのかと云えば、――わたしを見届けてほしいから。
彼から離れてわたしはもっと変わっていく。新しい恋をしたいとはまだ思えないけれど、でもここから変わっていくわたしの序章を見せつけたい。わざわざ逢って、別れを告げてくれる、優しくて酷い彼に。

「綺麗ですよ」
「ありがとう」

あなたのおかげです、そう云わないままわたしは美容院を出る。
胸一杯に、新しい空気が満ちた。

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