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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

サクラ

遠い異国の花を咲かせる樹木が、その丘にはあった。

***

どさりと荷物を足下に置いて、男は窓から外を眺めた。視線は外に向かっていたが、意識は腰掛けている車内に向かっている。じろじろ見られている。そんな気がする。もちろん男の錯覚だと認識していたが、ねじれてしまった感覚は絶えず、人の視線を感じ取っている。

ああ、やめてくれ。呻くように心の中で呟いた。誰も俺を見ないでくれ。たまらないほど叫び出したい衝動にかられた。だがそんなことができるわけもない。男は固く唇を結びつつけて、ひたすらに外を眺めていた。

故郷を離れていたほんの数年のうちに、街は変化を辿っていたように感じた。空々しい変化だ。見覚えのあった店も歩き慣れた通りも、もはや男は異邦人だとつきつけてくるようだ。

――おまえは誰だ。
――おまえは何者になってしまったのだ?

(俺は、――)

誰何に対していまの男には明確に答えることは出来ない。名前は答えられる。住んでいる場所も覚えている。けれど口が反応するだろう名詞は、いずれも男を表現しきれていない。無邪気であった青年では、もはや、ない。兵士。殺人者。忌まわしい単語だけが、男を彩っている。

やがてバスを降りて、故郷を離れているうちに無人となった家に向かって歩き出す。幼いころの思い出が詰まった家も、やはり空々しく男を迎えるのだろうか。おまえは誰だ。私たちの無邪気な息子を返せ。そう責めたててくるのだろうか。表情を消して歩き続ける彼の前髪に、ふわりとやわらかな風が触れていく。ふと、脳裏に過った淡い色合いが男の脚を止めさせた。

ああ、そういえば今は春だった。

家の傍には大きな丘があって、淡い色合いの花を咲かせる。散らせる。儚いようであざやかな花を、今、男はどうしようもなく眺めたくなった。踵を返して、丘に向かう。重い足取りが、急いたように軽くなる。そうして男は視界を埋める淡い花々の群舞を見たのだ。

はらり
はらり。
はら、り

(ああ、)

なんとやわらかな景色であることか。なんとやさしい色であることか。
荷物を落として、男はよろよろと花の下に向かう。夢のようにやさしい花が、ちらちらと花弁と落として男に降り注ぐ。優しい感触に、たまらず男は目を閉じた。

(帰ってきた)
(帰ってきたんだよ)

不意にまぶたが熱くなり、たまらず瞳を開いた。ごつごつした木の肌に触れ、奇妙にひきつれた笑みを浮かべる。ふわふわと豊かな花弁は遠い記憶にしかないもののようだ。触れたい。けれど触れられない。だがそのとき、強い風が吹いたのだ。

ざああああっ。

花弁は風の中に散って、男を囲むように、舞い降りてきた。消えるためではなく、まるで男を抱きしめるように。意識の底に眠る少年がそそのかすまま、男は舞い散る花弁を手のひらに捉えた。小さな花弁を見つめて、泣きだしたいほど愛(かな)しさがこみ上げてくる。

――おかえりなさい。

誰も云えぬことばを、ようやく与えられた、気がした。

005:サクラ▼
(文学 戦地帰りの男と桜)

サクラ→カタカナなら外国だろう(偏見)→満開の桜の下で泣く男。という連想が働いてこういうお話になりました。桜の優しい色合いは、異国の地にあっても圧倒的ではないかと。

2011/07/15

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