lullaby

低い調べが、聴こえる。耳触りのよい女の声だ。
彼にとって母よりも妻よりも馴染みのある響きは、人でありながら巧みに楽器の調べとなる。
うっすらとまぶたを開けると、茜色の陽が斜めに差し込んでいた。きらめく。まばゆくて目を細める。

その視界に若い女がいた。

物好きな。彼の唇はそう動いたが、はきとした声にはなっていない。かつては低く艶めいていた声は流れる歳月の中でかすれた声となり果てている。のどに唾液が絡んだ。女がはっと身動きするものだから、その唾液を呑みこんで、

「続けよ」

低く命じた。
さほど強くもない声だったが、途絶えかけた調べは静かに空気にたゆたう。うっとりと彼はまぶたをつむった。この頃は眠りが重い。一度まぶたを降ろすと、そのまま永遠に眠ってしまいそうになる。だが、深遠たる闇底に誘われ、戻ってこられなくとも、それも悪くないと感じるのだ。そのような心境の変化こそが、彼に訪れた老いといえるものなのかもしれない。

いつしか彼は、乾いた唇を開いて調べに寄り添っていた。女の声がわずかに乱れる。
けれどやがて涼やかな声とかすれた声とが、見事な和音となってその場に響いた。

ふつり、と、女の声が止む。

億劫に彼は目を開いた。首を動かして女の顔を見つめるが、逆光となってその顔は見えない。
不快だった。

「なぜ歌わぬ」
「陛下がお目覚めになられたので」
「これは子守歌ではないのか」
「……であればこそ、歌っておりました」
「わけのわからぬことを云う――」

唇だけで告げた言葉を、しかし女は確かに受け取ったようで、気配は微笑を含んだ。
シーツの中から右手を出し、女を差し招く。ためらうように揺れた女は、やがてしずしずと彼のもとに歩み寄る。しみの浮き出た腕、その先にある手のひらに、すべすべとした腕につながる手のひらが重なる。わずかに自嘲を覚えた。唇を曲げて、昔のように女に告げる。

「へたくそな歌だ。聞くに堪えん」

ふふ、と空気が揺れた。

「であればこそ、歌っておりました」

先と同じ言葉を返して、女は沈黙する。
手に触れる感触は、かすかな温もりを宿している。頼りないばかりにやわらかな指先を強く握りしめると、その温もりがじんと彼に伝わる。ああ、彼の掌はいま、女よりも冷たいのだ。

茜色から踏み出してきた女は、初めて会ったときと変わらず美しかった。
艶やかな黒髪、鮮やかな新緑の瞳、陶器のような肌にはくすみもない。かつての若さを流れる歳月に失った彼にとって、女は不変の象徴だった。まぶたを閉じ、唇に笑みを浮かべる。まばゆい。

唐突に、女は歌いだした。

耳に馴染んだ歌詞は変わることがない。頭に馴染んだ調べは変わることがない。
それでも彼はまろやかな音色を聞き分けていた。長く、永く彼のもとにあった女は、初めて女自身のためだけに歌っている。必至だな。若き日の彼であれば、そう告げて女を抱きしめていただろうか。

そんな想像を弄んで、ひたひたと忍びよる闇に意識の手を伸ばす。歌声が聞こえる。永く彼だけのものであった歌声は、もはや彼のものではなかった。まばゆく、不変に生きる女のためのものだった。

だからこそ、彼は意識を永遠に溶かす。

抗いようのない闇の前で、愛しき歌声は途切れて、消えた。

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