walking

すでに明るくなっている空だ。
それでもまだひやりと冷たい空気の中に足を踏み出す。ほわ、とコーヒーの匂いがする息を吐きだした。おかげさまで意識ははっきりとしている。まだ通り過ぎる人は少ない。

耳にイヤホンをつけようとした。けれど結局止めておいた。他に聞きたい音がある。その音だけを心待ちにしている自分に苦笑しながら、とんとんと階段を下りた。そして朝の街を歩き始める。

いち、に。いち、に。

きびきびとした動きを心掛けながら、速足で歩く。じきにポカポカと体が温まってきて汗が噴き出す。だから化粧なんてこんな時には出来ない。化粧のない素顔をさらすには抵抗があるけれど、汗で流れた化粧顔ほどみすぼらしいものはないものね。

桜の花びらは雨の名残で道路にたまっている。掃除が大変だろうなあ。そんなことを思いながら、積み重なっている薄紅色を綺麗だと思った。もうごみとして捨てられるしかない、花弁の塊は、それでも心惹かれる色合いのままだ。あの人は知っているのだろうか。そんなことを思いながら、先を歩く。

車が通り過ぎる。もう仕事なのだろうか。そういえば何をしている人なのだろう、と、毎朝出会う人を想った。健康のために歩いている、と何かの折に告げていた人は、まだまだ働き盛りだろう。薬指に指輪はなかった。そんなことをチェックしている自分を恥ずかしく思いながら、さらに歩き続ける。

でもそろそろペースを落としたりした。

左手につけている、ミッキーマウスの腕時計をちらりと確認した。6時55分。イヤホンをつけていれば、気に入りのラジオ番組が聴ける時間帯だ。でももっと聞きたい音があるから、イヤホンはやっぱり身につけようとは思えない。でもイヤホンをつけていた方が自然かな、と云う閃きが過ってしまって、完全に足を止めそうになった。6時58分。そろそろいつもの場所にたどり着く頃だ。でも。

でも、あの姿がない。

どうしたのかな、体調でも崩したのかしら。
昨日見た限りでは、すごく元気そうだったけれど、もしかしたら急に仕事が入って朝に散歩していられないのかもしれない。いままでにもそんな日はあった。あるいは寝坊しているのかもしれない。早寝早起きを心掛ける、と個人が頑張っても組織で働いている以上、いつもいつも頑張っていられないことはある。わたしは気楽なフレックスだから好きに時間を組むことが出来るけど、たぶん、彼はそういう人ではないのだろう。

じゃあ、どういうひとなんだろう。

彼のことはまだ心に秘めていて、自分以外の推測が混じっていない。だから夢を多く見ている段階だ。一番楽しい時期、まるでこの木々を見ているように彼を見ている。逢えたら嬉しい。逢えなかったら哀しい。シンプルで、だからこそ振れ幅の大きな感情だ。

速足の速度が、並足と変わらない速度まで落ちた。これ以上スピードを落とすようでは散歩の意味がない。けれどももういつもの場所にたどり着いてしまう。

今日は逢えないのかな、逢えるのかな。

まるでこの翠のような人。あざやかな存在感で飛び込んできた、それなのに話していると穏やかな気持ちになれる人。名前もまだ知らない。きっかけはまだみつけられない。

わたしは少しだけ残念な想いを隠して足を速めた。
けれどイヤホンをつけていない耳が、思いがけない、聞きたい音を拾って届ける。

「おはようございます、今日も早いですね」

おはようございます。いつもの表情で振り返りながら、あれ、と思った。いつも整えられている髪に寝癖がある。息がはずんでいる。何かを推測するよりも先に言葉が滑り出た。

「寝坊、したんですか?」

きっかけとなるには充分な言葉だった。わずかに照れたような、初めて見る表情を彼は浮かべる。

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