さいごの皇帝

    かつて、人は天空に輝く星で暮らしていたのだという伝承がある。
    蒼く神秘的に輝く、その星の名はガイア。
    空を翔る船で、この大地セレネと行き来し、人は大いなる繁栄を享受していたのだという。
    だが、あるときをもってその交流は途絶えた。
    その理由には諸説あるが、巷間でもっとも信じられている説は、過ぎたる文明ゆえにガイアは滅びを迎えたというものである。
    だからこそ、人はその繁栄に驕ってはならないと。
    いずれにしても、もはや伝承と成り果てた話である。今となっては、ガイアとは星の名前に過ぎない。

    ***

    まぶたを閉じた女神は、もしや地上の荒廃をこれ以上目にしたくなかったのだろうか。

    礼拝堂の冷たい床に膝をついたアルテミシアは、いつものように祈りを捧げようとした瞬間、そんなことを考えた。思わず動きを止め、可憐な面をゆがめてしまう。まぶたを閉じていた。ひと呼吸して再び開いたときには、毅然と顔を上げている。流れる髪も優雅な白い女神像を見上げた。それでも。心の内で呟いて、両手を組みアルテミシアは再びまぶたを閉じた。

    (どうか)

    だが、祈りの思考はそこで止まる。
    捧げたい言葉は確かにあった。だが矛盾している。戦いが終わるように、父が意識を取り戻すように。
    矛盾している。
    この戦いは皇帝である父が始めたものである。不可侵である国境を越え、次々と他国を侵略したのだ。
    戦いの期間はすでに三十の年を越えている。自国は潤い、――だが他国はそうではない。
    それは唯一、隣国出身の后妃である実母の嘆きから思い知らされていた。母はすでにこの世にはいない。
    母国滅亡の知らせを聞き、泣いて泣いて泣きつくしてこの世から去ったのだ。

    (莫迦なお母さま)

    きりきりとした痛みと共に、アルテミシアはそう考えることがある。
    夫への想いと故郷への想いとに引き裂かれた母。
    どちらも大切であるがゆえに、どちらも選ぶことができなかったひと。だがいまのアルテミシアには嗤えない。
    なぜならいま、父皇が病に倒れているからだ。
    突然の病だった。数日前、自室で倒れているところを発見されて以来、意識を取り戻していない。原因は不明だが、信頼できる医師団が治療に当たっている。だから唯一の皇位継承者であるアルテミシアは毎朝、こうして祈っているのだ。

    けれどいつも、祈りの言葉に彼女は惑う。

    戦いが終わりますように。父皇帝の意識が戻りますように。
    そのどちらの祈りにも、アルテミシアは純粋ではいられない。父が死ねば戦いを終わらせることができるのだ。あるいは皇女であるアルテミシアはこう祈るべきなのかもしれなかった、――どうか一刻も早くすべての他国が属領となりますように、と。

    けれどそれは彼女の真実ではなかった。こういうときは、母の娘だ、と強く想う。ふたつの祈りをひとつにまとめることができない。いや、まとめることはできるのかもしれない。ただ、助けてくれ、と。だがそれは、事態解決の方法にまで神に委ねる祈りである。
    情けない。まぶたを閉じたまま、己の不断を責めた。

    その時である。

    どんどんと礼拝堂の扉が激しく叩かれた。
    ぱちりとまぶたを開いて、ひざまずいたまま上体をひねる。おかしい、開ける気配がない。
    だが祈りの間は誰も立ち入らぬようにと命じていたことを思い出し、すっと立ち上がった。

    「入りなさい」

    するといささか乱暴な動作で重い扉が押し引かれた。
    焦慮に駆られたらしい従者はアルテミシアを見るなり顔をゆがめる。
    口を大きく開き、けれど大声を圧し抱くように膝をつき頭をたれて告げた。

    「皇帝陛下が、」

    ひやり、と、予感が走った。

    「ご逝去されました……っ」

    頭をたれたままの従者を前にして、アルテミシアは何も考えられなくなった。
    コウテイヘイカガゴセイキョサレマシタ。
    やがてその言葉の意味が追いつく。父が、死んだ。祈りのひとつが永遠に断たれたのである。

    (お母さま……っ)

    溺れる者が藁をも掴むように、なぜだか亡き母を想っていた。震えている唇を開いて、それでもあえて大きく息を吸う。吐く。

    父が死んだ。母を苦しめ、兄姉を追放し、それでも唯一の肉親である父が亡くなった。
    アルテミシアは容易に動き出すことができなかった。指ひとつも、思考ひとつでさえ。

    「アルテミシアさま」

    ところが冷然とした声が響く。ぎこちなく首を動かせば、腰まで届く白金髪を端整にまとめた男が立っていた。青灰色の視線を冷ややかに流してくる。この若さで宰相の地位にある男だった。感情の揺らぎをうかがわせない様子で言葉をつむぐ。

    「皇帝陛下のご逝去をお隠しになりますか」

    思いがけない言葉に目を見開く。なぜ、という疑問に答えるよう、彼は言葉を続けた。

    「我が君が始められた戦いはいまだ終着を迎えておりません。火種を残しまままでは、戦火はさらに拡大いたしましょう。当初の予定を終えるまで、我が君の死はお隠しになったほうが良いかと思われます」

    戦いを、終わらせる。
    それは父皇が亡くなったからといって、たやすく実現する祈りではなかったのだ。まざまざと思い知らされる。
    彼の言には一理あった。侵略国に対し、反抗の火種はあちこちにくすぶっている。いま、父皇の死を知らしめれば、いっせいに反逆ののろしが上がるに違いなかった。

    アルテミシアはまぶたを閉じる。

    次の皇帝となるべきは彼女だ。だからこそ、父の宰相はアルテミシアに判断を仰いだ。
    この国のすべてを背負わなければならない。
    ならば。

    「――いいえ」

    静かに震えることなく。揺らぎのない口調で云ってのけた。

    「お父さまの死を隠す必要はありません。葬儀の後は1年の喪に服し、その後にわたくしは即位いたしましょう」

    イストール、と、口を開こうとした男の名を呼ぶことで制する。

    「わたくしが次の皇帝です。あなたはその決定に異を唱えるのですか」

    まじまじと見開いた目でアルテミシアを見つめ、男はそれでも丁重に一礼して見せた。踵を返し、その場を立ち去る。
    静かに息を吐き出し、背後の女神像を急に意識した。祈りは無力。願いもまた無力。それは、知っていた。

    だからこそなすべきことは、自らの手でなさねばならないのだ。

    いまだ膝をついたままの従者に視線を移し、アルテミシアは口を開いた。

    「お父さまの意識は最後まで戻らないままでしたか?」

    頭を上げることなく、忠臣は応える。

    「いえ。意識が混濁した状態とはいえ、瞳をお開けになってこうおっしゃいました」

    魔女め、いまさら遅いのだ。

    (魔女?)

    アルテミシアは眉をひそめた。意味のある言葉なのだろうか。そうだとしたら末期の父の真意は何だったのだろう。
    解くことができない謎ね、と、アルテミシアは心の内で呟いて歩き始めた。

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