霧深い都市

三日だ。生まれ育った街を出、隣町にたどりついてすでにそれだけの日数が経っている。なのにこの街の人間は何もしようとしない。

「……くそっ」

苛立ちを込めて、アルセイドは両手を窓にたたきつけた。じんと手のひらに痛みが響く。だがそれでも感情は収まらなかった。
結構な音が響いたと思ったが、様子を見に来る者もいない。こぶしを握る。
自分の訴えなど信じられないということか。そんな想いすら過った。

「まあ、そんなに苛立つこともないのではないか?」

白い髪の少女がゆったりと告げる。腹立たしいほど落ち着き払った様子で、部屋に据えられた寝椅子に横たわっている。
じろりとアルセイドは見下ろした。

「こうして落ち着いている間にも、やつらの侵攻は進んでいるかもしれない。おまえ、それをわかって云っているのか」
「おそらくな」

そこで言葉を切って、少女は起き上がる。アルセイドの隣に歩み寄り、窓の外を示して見せた。

「いま、この街は深い霧に閉ざされている。となれば、地の利があるこちらが有利だろう。やつらはそうかまえているのさ」
「その霧とて、いつかは晴れる!」
「どうかな?」

少女はその言葉を残して、再び寝椅子に横になった。頬にかかる短い髪を払う。
頭のどこかが、無残だと感じた。長く伸ばせば、きっとうつくしく映える髪だろうに。そこで我に返ったアルセイドは、白く染まる街に意識を戻した。眉を寄せる。少女は奇妙なことを云っていた。振り返り、問いかける。

「どういう意味だ?」
「なにがだ」

背中に当てていたクッションを取り上げ、両手でもてあそびながら応えてくる。
言葉足らずだったか、と、質問を補足することにした。

「霧のことだ。晴れない霧など、この世にあるのか?」
「晴れない霧などない」

そっけない応えだった。

「だが霧を発生させることはできる」

不可思議な言葉に困惑して、今度こそ少女に向き直る。彼女は金緑の瞳をクッションに向けたまま言葉をつづけた。

「霧とはな、大気中の水分が飽和状態に達したからこそ発生するのだ。霧にもさまざまな種類があるが、この街の管理者がそのいずれかの原因を解明し、自衛のために発生装置を備えたのかもしれない。わたしはそう云いたいのさ」

アルセイドは沈黙し、疑わしげに白い少女を見下ろした。
ありふれた寝椅子に横たわり、ありふれたクッションをもてあそんでいる少女。
だが、この少女がただものであるはずがない。

「――おまえは、誰だ」

出会い頭から幾度も繰り返した問いを放つ。くすりと少女は含み笑って、艶やかに視線を流した。

「魔女だよ。ただし、上に”善き”をつけることを忘れるな」
「おれはおまえの正体を訊いているんだ。ただ、魔女というだけで納得できるか」
「善き魔女だと云うに。まあ。納得できようができまいが、してもらうしかないなあ。それが事実なのだし」

人を喰った応えに再びため息をついた。
この少女はいつもこうなのだ。名前すら教えない。
アルセイドを警戒しているのかと思えば、同じ部屋でこてんと無防備に眠っていたりする。つくづく奇妙な娘だった。

(おまえは自らの意思で歩み続けろ)

少女の言葉を思い出した彼は、思わず服の上から胸を押さえていた。
帝国兵に一刀で斬られた傷はすでにない。瀕死の傷は、あのとき、この少女によって癒されたのだ。
その事実とこの知識、まとめてしまえば、確かに魔女という呼称がふさわしいのかもしれない。

(善き魔女ね……)

ふと口端を持ち上げる。ただの魔女ではないぞ、「善き魔女」だと主張する様子を思い出したのだ。
その様子だけ取り上げれば、確かに外見通りの、年下の少女に過ぎない。年相応の稚気が可愛らしいとも云えるだろう。

「それよりアルセイド。わたしの腹時計が昼を訴えているのだが」
「ああ、確かに遅いな」

扉に目を向ける。すると大したタイミングで、バタバタと廊下を走る音が聞こえてきた。
そうかと思えば、ノックもなしに扉が開けられる。息を弾ませて登場した少年に、起き上がった少女がクッションをぶつける。

「礼儀知らず! ノックくらいしないか!」
「わわっ、すみません~」

つい反射で謝ってしまった彼は、この街の少年兵の1人だ。ぺこりと少女に一礼し、輝いた顔でアルセイドに向き直る。視界の隅で、むっと唇を尖らせた少女の顔が見えた。

「朗報ですよ、アルセイドさん!」
「何がだい?」

結局放り出されたままのクッションを拾って少女に渡しながら応える。すると少年はわざわざアルセイドの正面に回って告げた。

「帝国皇帝が死んだんです!」

とっさに息をつめていた。
顔をこわばらせたアルセイドは、少女が顔色を変えたことにも気付かない。オートマタのように唇を動かしていた。

「皇帝が、死んだ……?」

脳裏によぎる、白く可憐な、花一輪。

「はい。それで皆、盛り上がっているんです。これで侵略は終わる、国も取り戻せるって」
「嘘だ!」

叫んだのは白い少女である。血相を変え、いつもとはまるで違う、激した調子で言葉を続ける。

「皇帝が侵略しているだと? 何の冗談だ、それは。そんなことはあってはならぬことのはずだ」

思わず衝撃も忘れて、少年兵と顔を見合わせていた。
なにをいまさら。少年の顔にはそう書いてあったし、自分の顔にもそう書いてあるのだろうと想像できた。
まったくこの少女は、どこまで浮世離れしているのか。
そう思いながら眺めていると、初めて見るほど慌てきった様子で彼女は立ち上がる。ところが唐突に様子が変わる。
ぎゅっと苦しげに眉を寄せ、自らを抱きしめるようなありさまで大きくよろめいたのだ。アルセイドは足を踏み出し、倒れかかる少女を腕の中で支える。どうしたことか、少女はびっしりと汗をかいていた。

「ぼ、ぼく、お医者さまを呼んできますっ」

少年兵も慌てた様子で叫び、さかさかと部屋を立ち去った。
アルセイドは困惑し、少女の濡れた前髪をかきあげた。途端、ぞっとするような声が指先から伝わってきた。

――魔女め、いまさら遅いのだ。

年老いた男の声だ。ぱっと反射的に少女の髪から指を離していた。鳥肌が立っている。おそるおそるもう一度触れると、今度は何も聞こえない。ただ、意識を失っているらしい少女は荒い息をついている。唇を厳しく引き結んだアルセイドは、腕の中の少女を抱き上げ、寝台へと運んだ。

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