竜の眠り

雨が降り出す前の空気に似ている、と、感じた。

けれど、と、アルセイドは続いて思う。こちらの空気の方がよりかぐわしい。
これが生まれて初めて感じる、海の匂いだ。潮の香り、潮の風、共に前方から後方へと流れていく。

不思議だ、と思う。
湿っている空気は、少しも重くない。それどころか、心の底まで洗われていくようなさわやかさがある。

「海上に出るのは初めてか」
「ああ」

すでに慣れてしまった気配が隣に立つ。進む景色に気を取られ、短い応えになってしまったが、相手は気を悪くした様子はなかった。アルセイド同様、乱れる髪を手で押さえながら目を細める。

ギルドに用意された船は、船員30名を動員する中型船だった。2人きりの乗客には不似合いすぎるほど大きい。どうやらこれは、竜の島に行ける機会を逃したくない船員が多かったようなのだ。信心深い老船員は少なく、好奇心にあふれた若い船員が目立つ。皆、期待に満ちた視線を海原に向けている。

「海はいいだろう? 心が穏やかになる」

あまりにも嬉しそうに云うから、アルセイドは口の端に笑みを浮かべた。

「おまえがそんなに楽しそうなのは、旦那に会えるからだろう?」
「もちろんだとも。ああ、おまえに早く会わせたいよ。流れる優美な姿、銀色のうろこ、サファイアの瞳、……あれほど美しい生き物は他に存在しない」
(……うろこ?)

いま、奇妙な単語を聞いた。聞き間違いかと思い確認しようとすると、船を指揮していた男に呼びかけられる。共に歩み寄れば、航海図をしめされた。べん、と、ドゥマが指揮棒で一点を示す。

「いま、俺たちはここにいる。じき、潮流の激しい魔の海域だ。お嬢、本当に大丈夫なのか?」

善き魔女をお嬢と呼びかけ、ドゥマは不安げに尋ねる。魔女は自信たっぷりに微笑んだ。

「まかせろ。やつがわたしを拒むはずがない」

きっぱりと断言して、興味深げに航海図を覗き込む。細い指で、島と現在位置とを図る。向かう先を眺めて、小さく頷いた。

そろそろだな。そう呟いて、1人、先頭に向かって歩き始めた。乱れる髪をもはや抑えようとしない。そして。

持っていたナイフで、手首をざっくりと切った。

「なっ」
「お嬢っ!?」

アルセイドとドゥマは共に叫んで、駆け寄ろうとする。その寸前に、魔女は振り返り、来るな、と怒鳴った。

わずかにためらい、だが、手当てをしないわけにはいかないと考える。なにしろ血は大量に滴り、海面に落ちているのだ。持っていたハンカチを引き裂きながら、アルセイドはたどりついた少女の手首を抑える。どくどくとあふれる血、傷口を抑える。裂いたハンカチを受け取って止血作業の続きを進めたのはドゥマだ。ふう、と、少女は溜息をつく。

「まったく、大げさな……」
「そんなはずがないだろうっ!」
「まったくだぜ。なにを考えてんだ、阿呆」
「システムの解放に決まっている」

されるがままになりながら、不敵に少女は笑う。
反省も何もしていない。アルセイドがさらに叱りつけようとした時、

「ドゥマさん!」

船員の1人が叫び声をあげた。

慄きに満ちた声だったものだから、2人は驚いて船員たちが集まっている方を見た。ドゥマはアルセイドを見、頷きを確認すると、そちらに駆け寄る。そして、こちらも短く驚きの声をあげた。そろって海面を覗き込んでいるようだが、アルセイドの位置からは見えない。不思議に思っていると、少女が先に動く。ただしドゥマたちの方ではない。あくまでも船の先頭だ。わずかに迷い、それでも少女が気がかりで、その後に続いた。船の先はゆるやかに細くなっているつくりだ。そうしてようやく海面を見て、アルセイドは気付いた。

(何かに、囲まれている……?)

影しか見えない。ただ大きさはかなりのもので、単体ではない。黒い影が次々と集っている。

「お嬢!」
「少し待て」

先程より切迫した呼びかけに、揺らがない声音で応える。

アルセイドはドゥマに視線を合わせ、ゆっくりと頷いてやった。
根拠なき確信。
再び襲いかかった、自分のなかに育った少女への信頼に苦笑する。

それでも船員は不安げに顔を見合わせていたが、少女はようやく立ち止まり、凛と伸びる声を張り上げた。

「門よ、名を問うことなかれ」

ざば、と海面が大きく揺れる。割れていく。影が姿を現していく。
そうして次々と姿を現していったものたちは。

「……竜!?」

驚きに満ちた、誰とも特定できない声がその正体を告げていた。

長い首に、爬虫類の瞳、太陽の光にきらめくうろこ――しかも1体ではない。伝説にしか存在しないと云われる生き物たちがあっけなく、次々と海上に姿を現していった。人間たちの驚愕など知ったものではない、そうとでも云いたげになめらかに進んでいく。

たしかに、存在した。
アルセイドは驚きと興奮に満ちた視線を魔女に向ける。小さな背筋はピンと伸びたままだった。

「だが、古の約定に従い、我が血をささげよう。我は”時を進める魔女”にして、そなたらが新種、ガイアを動かす短針だ」

竜たちは船の先に向かう。
そして向かう先に道を作るように、幅を置いて並んだ。その幅はこの船の横幅と同じだ。最も身近な位置にいる竜が、長い首を少女に向けてゆっくりと折り曲げる。

『幾千の夜、幾千の昼、この日を待ちかねておりました。我らが時計、長の花嫁どのよ』

脳内に響く声には覚えがあった。
初めて魔女にあった時と同じだ。脳内だけに響く声。あたりを見回せば、どうやら聞こえているのは自分だけのようだ。それにしても。

(長の花嫁?)

訳がわからない。たしかに魔女は夫に会いに行くのだと云っていた。だから花嫁とは不思議のない言葉だ。

だが、竜の長の花嫁? 
意味がわからない。
たしかに人間である魔女の夫が、竜であると誰が思うというのか。

『ひさしぶりだ、我が契約者たちよ。約定通りにわたしは戻ってきたぞ』

にこやかな調子で、魔女の声なき声が続く。

『長針もつれてらっしゃる』

愉しそうな竜の声だった。そのとき、竜が自分を見たような気がして、アルセイドは目を見開いた。

(……長針?)

それは自分のことなのか。

『それで我が夫は息災か?』

生き生きとした声に竜は頭を下げる。目を閉じて、沈黙する。魔女は初めて、戸惑った様子を見せた。

『どうした』
『……時の流れは、残酷なものでございますな』

沈痛なものを含んだ声だった。その声の調子に、アルセイドは眉を寄せる。
竜と人の違いはあるとはいえ、聞き慣れた調子だった。

「つまり、あれが道ってわけかい」

すると存在を忘れかかっていたドゥマが、自分を取り戻した声で唸るように呟いた。いつのまにか、アルセイドの隣に並んでいたらしい。お嬢、と、いつもの調子で呼びかける。細い肩がびくりと震えた。振り返らない。

「この、竜たちがつくりだした道を進めばいいんだな?」
「……そうだ」

振り向かないまま、それでもしっかりと頷く。いぶかしそうな様子を見せながらも、ドゥマは船員たちに向かい、次々と指示を出していく。伝説上の生き物を目の当たりにして、そしてその生き物が自分たちの為に道を作っていることを悟り、船員たちはいずれも興奮していた。

だがアルセイドは1人、少女の傍らにとどまり、ためらいながら、うつむいたその顔をそっと覗き込んだ。

少女の白い秀麗な顔は、すでに何事かを感じ取った表情を浮かべている。
痛みをこらえるような。

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