恩人なのだ、と、巨体を見上げる少女は呟いた。
    船員たちは傍にいない。島の探索に出たということもあるが、なにより、少女の様子に気を遣ったのだ。

    アルセイドだけが少女に寄り添って、ゆっくりと呼吸する大きな身体を見つめていた。

    流れる優美な身体、きらめく銀のうろこ――サファイアの瞳は閉じられていたが、たしかにうつくしい生き物だった。同時に、その生き物が年老いていることも、また、ひと目見て明らかだった。いまは深い眠りにあるらしいその身体に慕わしげに触れて、魔女はうろこがきらめく肌に頬を寄せた。閉じたまぶたに哀しみが漂っている。涙はこぼれていない。

    「当時のわたしは、人間に疎まれる存在でな。ある日追われて崖から突き落とされあわや、という時に、こやつが助けてくれたのだ。それからずっとそばに居続けて、そしてこやつの押しかけ女房になったのだ」
    「よりにもよって、竜の長の嫁にか」

    内心の動揺など全く表に出さぬよう細心の注意を払いながら、アルセイドは合の手を入れる。ふふ、と空気が震えた。

    「だってわたしを助けた竜が長だっただけなのだもの。子を生せぬどころか、種族がそもそも違うわたしを、それでも周囲の反対を押し切ってこやつは傍に置いてくれた。……しあわせだったぞ」

    さて、と呟いて、魔女は瞳を開いて体を起こした。立ち尽くしたままのアルセイドに手をさしのばしてくる。

    「おまえを我が夫に紹介せねばな。手を貸せ」
    「紹介って」

    相手は深い眠りにあるのだ。それとも叩き起こすつもりなのだろうか。
    困惑するアルセイドに対し、魔女は自信たっぷりに微笑んだ。

    「方法はいくらでもある。さあ」

    何事かを返しかけて、結局、開いた唇を閉じた。これ以上抗弁しても時間の無駄だとさすがにわかる。
    差し出された細い指を、ためらい、そっと握りしめる。

    とぷん、という音が聞こえた気がした。

    視界は一転して青く染まり、魔女の姿が消える。流れる。自らに触れているものは何一つないと云うのに、目に映る者の変化によって流れていく感触がある。すさまじい速さだ。前から後ろへ、流されていく。

    ……いや、進んでいる、というのか。
    優美な竜の姿が見えた。うろこをきらめかせる魚の姿が見えた。枝を伸ばす珊瑚の姿が見えた。
    それなのに海の底、ようやくアルセイドは自らがいる場所がわかった。そして自分は海上に向かって進み続けている。

    出た。

    その勢いのまま、空に飛び出し翼を広げる。風がうねり、彼のまわりを取り巻いた。水気が払われていく。
    くるりと一回転し、さらに上昇する。空にあるのは青い月ではなく、白い月だ。奇妙な違和感を覚えた。

    『おや珍しい。我の夢に寄り添うものが、2人もいる』

    その声は豊かな響きを持っていた。

    声が響いた途端、視界がぶれる。次の瞬間、うつくしい生き物が目の前に出現していた。
    きらめくサファイアがアルセイドを見て微笑む。

    『そなたは我が妻に導かれた長針か。約束の時は満ちたのだな』
    「おまえが……」

    続ける言葉に迷う。何を云いたかったのか、アルセイド自身にもわからない。
    ただ、このうつくしい生き物が、あの魔女が誇らしそうに語った夫なのだと云う事実に圧倒されていた。何も云えない。

    『だが時は流れた。たとえガイアに戻ることが叶ったとしても、もはや我は妻をのせて飛翔することは叶うまい。時が満ちることを待ち続けている間に、我は老いてしまった。じき、命も失うだろう』

    長針よ、と、竜はアルセイドに呼びかけた。

    『そなた、我が妻の傍にいてやってくれぬか』
    「は?」

    相手は竜の長である。自尊心も高いだろう。
    それなのにアルセイドは礼儀を忘れて間抜けな声をあげていた。豊かな笑い声が響く。

    『何も具体的な何かをしてくれと云っているわけではないのだ。ただ我が逝って独りになるだろうあやつの傍にいてやってくれ。長針としてではなく、友人として』

    元々、同じ種族のそなたらなら共に在りやすいだろう。竜はそう言葉を続けたが、アルセイドは慌てた。
    傍にいる。なのに、竜はそれ以上のものを求めているようにも感じられたのだ。
    だが結局それに触れることは避けて、それより気になる単語を追求することにした。

    「それより、なぜおれを長針と呼びかける? おれには別に名前があるんだが」
    『長針とは、短針と共に、この箱庭の時を動かす存在』

    打って変わって、重々しい声だった。

    『いや、管理を放棄された以上、廃園と呼ぶべきか。いずれガイアは復活する。そのための箱庭、それこそがこのセレネだった』

    ガイアは復活する、と力強く続ける。

    『だからこそ、この廃園は滅びに向かうだろう。ここは仮初の宿、ただの避難場所だったのだから、役目を終えたら元の世界に戻る。その時を促すのは我が妻、そしてこの世界で産まれ我が血と知を継いだそなただ』

    長針よ。再びそう呼びかけられた。

    『どうかその役目を超えて、我が妻の傍にいてやって欲しい。人間を厭うのは、同じだけ、人間を求めているからだ。決して本心ではない。いずれ我を失うあやつの傍に、心に寄り添ってやってくれ』

    長い首を巡らせて、竜の長は告げた。

    『さあ、我が夢から現し世に戻るがいい。我が妻に招かれし長針よ、真実を求め辿り着いた次期管理者よ。時はそなたらが思っているほど、ゆるやかに流れてはくれぬぞ』
    「ま、待て!」

    叫んだ言葉は途中から、現実のものになっていた。そうと認識して、これまで交わした会話が現実のものではないと気づく。

    「我が夫に会ったか?」

    いつのまにか、アルセイドはしゃがみこんでいたらしい。
    涼やかな声が頭上から響く。見上げようとして、くらりと頭が眩んだ。うつくしい竜に手を添えたままのうつくしい魔女――云われた言葉など、伝えられるはずもなかった。

    ***

    「なんて、不思議な夢……」

    寝台に身体を起こしたアルテミシアは呟き、目覚める寸前まで目にしていた風景を思い起こしていた。
    青と水の世界。銀色のうつくしい生き物。

    「時はゆるやかに流れてはくれない」

    竜の言葉を繰り返し、アルテミシアは眉をひそめた。
    もはやためらっている場合ではないのだと漠然と感じた。

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