英雄

    「将軍〜、どこですかぁ~」

    雲ひとつない見事な青空だった。からりとした空気に流れる風は心地よい。
    だからうっとうしいのは、すでに泣きが入っている自分の声だけだろうと若者は思う。

    (皆さんもひどいよなあ。僕なら見つけられるって、そんな根拠はどこにあるんだよ)

    だがやはり仲間たちの見込みは正しかったのだ。歩き続ける若者の頭にこつんと当たるものがある。
    なにかと思えば、芯になるまでかじられたリンゴだ。すぐに閃いて、頭上を見た。

    「ミカド将軍っ」
    「男たるもの、そう簡単に泣き声を上げるもんじゃねえぜ、エミール」

    灰色の髪、灰色の瞳、――それでいて東大陸風の顔立ちをした若き騎士は、だらしのない様子で木の上に腰掛けている。片腕を立てた片ひざにのせ、もう片腕は頭を支えている。危なげなく安定した男は斜に構えた笑みを浮かべたが、それがこれほど似合う男も珍しい。

    「作戦開始予定時刻にも、あちらさんの行動予測開始時刻にもまだ間があるだろーが。ゆっくりさせろよ」
    「ゆっくりしている場合じゃありません! アルテミシアさまから急ぎの書簡が届いたんですよっ」

    その名前を出せば、見事に男の表情が変わる。
    よっと短いかけ声をかけてそのまま飛び降りてきた。わっと叫んでエミールは男から離れる。
    それでもずいと差し出された手にそっと書簡を差し出し、上司に背を向けた。

    これは毎度の習慣である。かの皇女からの書簡を読んでいる最中の男は、ひどく澄んだ表情を浮かべているため、直面してよいものか判断に難しい。時折、子供のようにも笑う。結果、いつもエミールは背中を向けてしまうのだ。

    「なるほど」

    やがて読み終えたらしい男の呟きが聞こえてきた。おそるおそる振り返れば、すでに男は先を歩き始めている。慌てて追いかけて見上げると、厳しい面持ちに変わった男が口を開く。

    「作戦を組み直す」
    「はっ」

    長身の男についていくには、悔しいことにまだ歩幅が追い付かない。訊き返しても将軍は応えない。
    代わりに皇女の印が押されたその紙を、いたって無造作に渡された。皇族からの手紙をである。その扱いに怯みながらものぞきこみ、書かれている内容にぎょっと息をのんだ。

    ――東方部隊を預かるミカド・ヒロユキ。
    至急、皇宮に帰還されたし。

    その簡潔な文章を締めくくるのは、皇女直々の署名だ。
    正式な文書の形をとっていないが、これは明らかに命令である。
    そうと知りつつ、エミールは声をあげていた。

    「将軍の帰還命令ですかっ」
    「そうだ。見りゃわかるだろ」
    「そんな、だって、」

    抗議の言葉を続けようとしたエミールだったが、男はぴたりと足を止め、鼻をつまんできた。

    「決定事項なんだよ。わかったか、ちびすけ」
    (僕、ちびすけじゃありません!)

    反論の言葉は、しかし、鋭くなった男の視線に封じられた。指を外され再び歩き出しながら、かの皇女を思い出す。

    ――その姿は、まるで黄金の薔薇のよう。

    流れる純金の髪に、深い泉のような翠色の瞳、ほっそりと華奢でありながら優美な身体は常にやわらかなドレスに包まれている。たおやかな美貌を誇るアルテミシア姫とこの男は乳兄妹にあたり、ミカド・ヒロユキの個人的忠誠はすべてアルテミシア姫に捧げられているともっぱらの噂だ。そのアルテミシア姫は、今や、唯一の皇位継承者である。

    ましてや今は微妙な時期だ。将軍のこの様子も考えてみたら納得できた。

    司令室にたどりつけば、待ち構えていた仲間たちが一斉にこちらに向く。
    エミールは末席に向かい、男は堂々と最奥に向かった。どさりと椅子に腰かけ、前置きもなく口を開く。

    「皇宮よりの命令だ。俺はこちらの任務から外れる」

    幕僚たちは軽く視線を交わし合う。先手を切ったのはミカドの副官だ。

    「それはアルテミシアさまからのご命令でしょうか」
    「そうだ。引継は、シーナ、おまえに任せる。出来るな?」
    「かしこまりまして」

    静かに副官が一礼すると、攻撃隊長の任にある男が不満げに声を上げる。

    「しかしお前さんがいなくなると、兵の士気がおおいに落ちちまうぜ」
    「その心配はいらん。戦闘はしないからな」

    ざわめいて、困惑した閣僚たちに、男は言葉を続ける。

    「先の皇帝陛下は逝去された。ならば一兵卒残らず戦地で死ね、という苛烈な命令に従う義理はないだろう。ましてや新皇帝陛下の新たなる治世をさらなる血で汚したくはない」
    「そこまでおっしゃるからには、すでに作戦を立ててらっしゃると?」

    シーラが問いかけると、にやりと自分の頭をつつく。

    「ほんの15通りほど。頼りないか?」

    ふう、と怜悧な副官は溜息をつく。再び攻撃隊長が口を開いた。

    「いまさら頼れねえなんて云うわけないだろうが。しかし、戦い甲斐のない戦闘になりそうだな」
    「だからといって、人殺しが好み、というわけじゃないだろ?」
    「あたりまえだ!」

    憤然と男が応えると、ずっと沈黙していた参謀長がほっほっほと笑う。

    「では坊主の作戦を聞かせてもらうかの。ただし下手な作戦ならば容赦なく突っ込むからそのつもりでな」
    「わかってますよ、師匠」

    エミールと呼びかけられ、記録用の書面を広げた。男が語る作戦内容が進むにつれ、幕僚たちの表情が引き締まっていく。作戦内容を記録するために、指を動かしながら、その変化を誇らしげにエミールは眺めた。

    (だからこの方はおそろしいんだ)

    数々の武勲をたててきた若き騎士に、エミールは憧れの視線を向けた。

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