砂漠の水

    「雨が降りませんね」

    すべての事後処理を終え、3日が過ぎた日のことだった。
    昼食を持っていくと、ぽつりと有能な副官が呟いた。その言葉を聞きとがめてエミールは目を瞬かせた。
    その言葉の意味を訊ねようとして、その前に渡すべき盆を思い出した。

    「副官。お食事をお持ちしました」
    「あら、ありがとうございます」

    北方出身だという女性は、白い肌にうっすらと汗をかいている。
    だからこその言葉だろうか、と思いかけて、すぐに首を振った。

    あり得ない。ミカド将軍ならともかく、シーナ副官がそんな理由で天候を気にかけるなんて。

    それならばなぜ、と首をかしげていると、くすりという笑声が聞こえた。
    はっと我に返ると、面白がるように彼を見ている。

    いい加減な将軍と生真面目な副官を似ていると思ってしまうのはこんなときだ。

    騎士相手ならこんな視線で見られても仕方ないとあきらめがつくが、副官相手ならばなぜか悔しさが先に立つ。面白くない気持ちのまま言葉に出していた。

    「なにか、楽しいことでもございましたか」

    あえて堅苦しく云うと、いっそう副官は楽しそうに笑う。

    「エミール。あなた、そのままでいてくださいね」
    「は?」
    「そのままのあなたがいいんです。お願いですから、将軍やアマシのような男にならないでくださいね、お願いですから」

    真面目に云われてしまうと、エミールとて戸惑ってしまうのだ。
    ましてやミカドやアマシのような男を目指しているならなおさら。
    エミールの反応をさておいて、副官は深い深いため息をついている。

    「まったくあの殿方たちときたら! 結局はやりたいようにしかしないのですから。それでも責任や義務をきちんと全うするなら、わたくしも何も申しません。ですけれど半端に投げ出して、……苦労するのはいつもわたくしやシュナール老ですよ、まったく」
    「あー……」

    ようやくシーラの憂いを理解できた。その青灰色の瞳の下にはクマが浮いている。
    それは本来なすべき職務を放棄した人間が2人もいるためだ。ひとりは皇宮からの命令を理由として、もうひとりは性に合わないと云う理由にもならない理由を持ち出して。

    つい先ほど、その男にも食事を運んだエミールであったが、昼寝態勢の男にさすがに一言云いたくなったエミールである。

    「あのっ、僕、出来ることがありましたら、なんでもやりますから!」
    「え?」

    ぶつぶつとぼやきながら、それでも食事を続けていたシーラはきょとんと顔をあげた。
    構わずエミールは言葉を続ける。

    「皆さんの食事の運搬はもちろん、書類整理も他部隊との折衝も捕虜の見張りも、おっしゃることは何でもやります!」
    「エミール」

    息を切らせて云いきると、副官は困ったようにも嬉しそうにも微笑んだ。
    ありがとう、と告げて、食べ終えた食器を脇に移動させる。

    「ではさっそく調べていただきたいことがあります。よろしいですか?」
    「はいっ」

    直立不動したエミールに、やや複雑なまなざしを向けてくる。

    「このあたりの地域の雨量の調査です」
    「……は?」

    思わず訊き返すと、副官はわずかに頬を染める。恥じらっているのではなく、ばつが悪そうな様子だ。

    「気のせいではないか、とも考えています。ですが最新の論文を読んだためか、妙に気になるのです。いまの現象は、」

    と、滔々と続く言葉を語られても、エミールには戸惑うことしかできない。
    副官が何を云っているのか全く理解できていないのだ。

    そういえば、副官は皇都から良く荷物を取り寄せている。しばしば楽しそうに読んでいる姿も見ていた。
    それが論文なんだろうか、とぼんやりしていると、こほんと咳ばらいが響いた。

    はっと顔をあげると、細めた眼でこちらを見ている。まずい、と思った瞬間、冷ややかな声が聞こえた。

    「聞く気はあるのですか、ないのですか? ないのなら食器を持って出ていってください。邪魔ですから」
    「申し訳ありません! 聞く気はありますっ」

    きちりと90度に身体を折り曲げる。
    ややしてため息がこぼれて、こちらこそごめんなさい、と云う言葉が続いた。

    「わたくしもわかりにくい言葉を使っていました。最初からわかりやすいよう、説明するべきでしたね」

    まずね、と、さらりとした表情を取り戻して、ようやくいつもの調子で言葉を続けてくれた。
    安心しながら、今度こそ真面目に彼女を見つめる。

    「南方に砂漠があるでしょう。あそこは遥か昔は緑地だったと云うことをご存じですか?」
    「いえ、初耳です」

    副官が告げているのは、この大陸でも有数の砂漠地帯のことだ。

    しかし緑地だった、とは、信じがたい。なにせエミールが生まれる前から、砂漠だったものだから、副官の言葉に、つい疑わしげな言葉を返してしまう。彼女は苦笑して、論文によりますとね、と付け加えた。ならば皇都では知られた話なのだろう。それにしてもにわかに信じられない話だ。

    「あそこはね、昔は草木が育つ健康な土があった場所なのです。ところが雨が降らないがために、土がカラカラに乾燥してしまったのですね。だから砂漠となってしまった場所なんです」
    「そうなんですか」

    新たな知識を入手し、何気なく相槌を打つ。だが続く言葉に、動きを止めていた。

    「そして、あの砂漠は年々広がっています。おまけに最近は、ちっとも雨が降らなくなったものですから、同じ現象が起こるのではと気がかりなのです」

    エミールは深刻な響きで続けられた言葉に青ざめた。

    「あの、だから雨量の調査なんですか」

    副官はエミールの反応に、困ったように微笑んだ。

    「まだ、わたくし個人の興味段階です。ただ雨期に入っているのに、一滴も雨が降る気配がない。おかしいと思いませんか?」
    「すぐに調べますっ」
    「お願いします。まあ、事実がわかっても将軍がいない限り、報告書を送ることしか我々には出来ませんが……」

    そこで言葉を切り、副官は、いえ、と短く呟いた。

    「将軍が急遽帰還されたということは、それどころではないということなのでしょうね」

    そうして遥か西方を窓越しに見つめる。厳しく引き締まった横顔だ。
    ただ残念なことに、エミールには副官が何を考えているのか読み取ることは出来なかった。

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