南にある町

この町、唯一の食堂の朝は早い。

夜が明ける前から女主人は起き出し、朝食の下ごしらえを始める。掃除は前日に済ませているから、ゴミ袋を出すだけだ。

働きに出る前の男たちは案外によく食べる。野菜を切り、パンを焼き、燻製肉と卵を添える。それだけが朝のメニューだったが、皆から文句が出たことはない。さいわいだが、もう少し何か出来ないものかねえ、と、毎朝の悩みを今朝も抱きながらゴミ袋を出すために扉を開けた。

するとすぐ近くに人が立っていたものだから驚いた。

長身の男である。ぱちぱちと目を瞬かせて、よくよく見つめた。灰色の髪、灰色の瞳、東大陸風の顔立ち、――ようやく相手を思い出した女主人は笑顔を浮かべた。

「おやまあ、グレイじゃないか。何年ぶりかね」

グレイと呼ばれた男は苦笑した。

「そんなに経ってないはずだ。せいぜい1年といったところさ」
「そうかい? あたしゃてっきり、傭兵なんざ辞めて所帯でも持ったのかと思ったよ。良い男だものねえ、あんた」

そんなことを云う女主人だが、その左手の薬指には指輪がはめられている。5年前に亡くなった夫との結婚指輪だ。だからただの社交儀礼と分かりきっている男はさらに笑って見せた。

「傭兵なんざ、しょせん流れ者の嫌われ者だぜ? まともな親なら可愛い娘を嫁がせたいと思うかよ」
「見る目がないねえ。あたしにいたのが娘なら、とっくに口説き落としていたさ」
「そいつは勘弁。おかみさんを母親にしたら、遊び呆けていられなくなる」
「そりゃそうさ。男は家族を養ってなんぼだからね。きりきりしぼりあげてやるよ。……いつものでいいんだね?」

確認しつつも、すでに女主人は動いている。男は頷き、カウンター奥の席に座った。男は決して窓際の席に座らない。それは腰にある剣が物語っている職業がさせる慎重さだろう。だがこの町には珍しくない職業でもある。侵略してくる帝国に対抗するため、この国も多くの傭兵を雇ったのだ。それでも帝国の勝利によりすべてが無になったわけだが、それはこの男に職を失わせる結果になったのかもしれない。

そう考えると、この男に、なにやら申し訳ないような想いを抱いてしまうのだ。
はじめて、国名も文化も保たれたまま侵略は成された。だが帝国兵が我が物顔で街をうろつくのは生理的に我慢ならない。

「はい、お待ち」

ほかほかと湯気を立てる盆を置けば、子供のような笑顔を見せる。
まずはスープに口をつけた。その動きを見守りながら口を開く。

「それにしてもあんた、次はどこに行くつもりだい?」

問いかけると男は苦笑した。腰にある剣を叩いてみせる。

「必要とされるなら、どこにでも。でもまずは、皇都に向かってみようかと思ってる」
「皇都?」

あからさまに眉をしかめると、男は面白がるように眉をあげた。

「やめときな。気分が悪くなるばかりさね」
「新しい皇帝陛下は、絶世の美女らしいぜ? 運が良かったら会えるかもしれないだろ」

女主人はじろりと男を見下ろした。

「あんた、馬鹿なことを考えているんじゃないだろうね?」
「は?」
「たとえばそのお姫様を暗殺、だとか、そういうことだよ。やめときな、一生を棒に振るんじゃないよ!!」

一喝してやると、男は飄然と肩をすくめた。さらに言葉を続けようとすると、短く「しねぇよ」という応えがあった。
冷静な目つきになってパンをちぎっている。

「もしかしたらその姫さんは侵略を止めてくれるかもしれないひとなんだぜ? それにひとりを殺して、次がもっとどうしようもない奴だったら、世界中の人間に恨まれてちまう。そんなのごめんだね」

男の楽観論にはうなずけないが、とりあえず杞憂であったことには安心した。
気を抜けば、ふと扉の向こうに人影が見える。そう云えば男の登場に驚いて、まだ「閉店中」の札をかけたままだった。思い出してカウンターの外に出る。するとなおも男の言葉が続いた。

「しかしおかみさんのなかでは、帝国の姫さんの評価は案外低いんだな」

くるりと振り向いて、腰に手を当てた。

「あの男の娘だからね」

へえ、とでも云いたげな男に、さらに云い募る。

「他の皇子皇女たちと違って、父親の侵略を止めようとはしなかった。だから皇帝になれるお姫さんなんだろ? だから期待は持てないし、評価も低いのさ。現にいまだに他の国からも兵は引かれていないしね。あたしゃもう戦いはこりごりなんだよ。この国はもう帝国のものだがね、正直帝国兵を見るのも我慢ならないのさ」

それだけを伝えて、さっさと扉をあけに行く。心の中は思いがけない不審に波立っている。
この男はどうして帝国の姫を気にかけるのだろう。もしかして帝国の傭兵だったのか? 息子と戦う立場だったのか?
そう考えかけて、首を振る。まさか。帝国はすべてが正規兵で構成されている。
それでも消えないもやもやを抱えながら、扉を開けた。
朝であるにもかかわらず、もったりとした空気が入る。これがこの国の朝だ。

「早く開けてくれよぉ、腹が減ったぜ」
「まったくまったく。今朝はのんびりし過ぎだぜ、おかみ」
「悪かったね。さ、入んな」

どやどやと入ってくる男たちは、おのおのの定位置に腰掛ける。目ざとくもカウンター奥のグレイに気付いて声をあげた。

「グレイじゃないか。おまえ、まだ生きてたのかよ」
「あたりまえだ。しかしおまえ、老けたなあ」
「ばぁか。家族持ちを妬んじゃいけねえぜ。渋みが出てきたと云え」

ワイワイと親しげな会話を聞きながら、女主人は手早く朝食の用意を済ませ、配っていく。
いち早く食べ終えたグレイは立ち上がり、ちゃりんと硬貨を置いた。どこに行くんだい。配りながらさり気なく訊くと、まだ帝国の領土になっていない国名を云う。安心しつつ見上げると、静かな微笑を男はたたえていた。

「また、いつか。おかみさんのご飯を食べたいね」
胸がいっぱいになって、女主人はその背中をバンバン叩いた。

「必ずだよ。何年後でもいいから、必ず食べにおいで。息子にも会わせてやるさ。幸いにも生き残ったと云うからね」
「……嬉しいよ」

かすれた声でそれだけを云い残して、グレイは立ち去った。女主人と男たちは、久しぶりに訪れた傭兵の話で少し盛り上げる。
だがやがて、日常の話題に流れていった。
だから彼らは知らない。

グレイと呼ばれた男が食堂を出て、空を見上げて眼を細めたことを。

「侵略した将軍が身分を隠して、訪れるのも限界か。――なあ、アルテミシア」

そう、呟いたことさえも。

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