主従

    ピーと天高く鳥の音が響く。
     
    礼拝堂の天窓に黒い影がよぎった。あれは何の鳥だろう。
    どこまでも高く、どこまでも広く、飛んでいく力を持つ鳥の名は。

    (まるで、あなたのようですね)

    ミカド、と声にならぬ声でアルテミシアは呼びかけていた。
    それだけで唇が笑みを浮かべてしまう。

    組んでいた手のひらをほどいて、すらりと彼女は立ち上がった。
    いま、まわりには誰もいない。
    だが礼拝堂の外には、前よりも数を増した警備の兵が囲んでいる。
    朝の礼拝はすっかり意味を変えてしまった。
    自らの心と向き合うのではなく、疲労した心を癒す時間だ。
    それでも、がらんとした空間の中から、アルテミシアは扉を睨みつけていた。

    重鎮たちが、自分を駒にしようとしていることは、とうに理解している。

    イストールが行う講義がその筆頭だ。真実は確かにあるのだろう。だが、偽りを確実に交ぜている。根拠はなくとも、この皇宮で生き抜いてきたアルテミシアの直感がそう告げている。そうして、自分たちに都合の良い駒に仕立て上げようとしている、と。

    だが問題はそんなことではない。
    講義など大人しく納得したふりをすればよいだけだ。

    問題は、現在の状況、そして即位した後の状況である。いかにアルテミシアの意思を貫くか。 具体的に考え始めたら、くらりと頭が痛み始める。だが対処しなければならない。それには信頼できる人材を確実に増やしていくことだ。
    身分上下にかかわらず、信頼できる人を傍に採用していくこと。

    ――数日前に見た夢を思い出す。

    不思議なほど印象的で、それでももう細部は覚えていない。だがのんびり構えていられないのだ、という感覚が強く残っている。だからなりふり構わず、この世で最も信頼できる人の召還を図った。重鎮たちの誰にも知られぬよう、こっそりと最低限の方法で。

    知られたらどうするか。危ういながらも、すでに対応策は考えてある。しゅっとドレスの裾をさばいて、扉に向かう。ちりりんと鈴を鳴らせば、扉は開かれる。ずらりと人々は並んでいる。その中央に。

    膝をついているその人が、いた。

    思わずあげそうになった声を抑えたのは、こちらを鋭く見据えるイストールの姿をかろうじて認識したからだ。もちろん彼にも帰還命令を出したことを伝えてはいない。不快に感じていることは間違いなかった。それでも、両手を組み合わせ、すっと息をのみこんだ。ふわり、といつもの微笑を心がけて浮かべる。

    「よく戻りましたね、ミカド・ヒロユキ」
    「敬愛なるアルテミシアさまに再びお会いできるとは、戦地にありましたこの身には望外の喜びでございます」

    堅苦しく、かしこまった口上がおかしかった。

    本来の彼は礼儀正しい言動を好まないくせに、時々冗談交じりにそうふるまう。おばちゃん、と呼びかけられて困惑していた母を思い出した。

    そう、本当の彼は、相手が皇女であろうとも后妃であろうとも、自分のスタンスを貫き通す人。顔をあげて、にやりと笑った顔を見た。不逞な笑顔、と人は云うだろう。けれどこれはアルテミシアの大好きな笑顔だった。浮かべていた微笑が種類を変えてしまいそうになる。
     
    だが、その寸前、イストールの声が響いた。

    「これはどういうことですか、アルテミシアさま。いかなる理由があろうとも、最前線にある将軍を呼び戻すなど、いかに次期皇帝であろうとも許されることではありませんぞ」

    予測できていた問いだった。だから答えも用意してある。必要なのは口にする覚悟だった。
    気を鎮めてアルテミシアはイストールをまっすぐに見返した。ミカドが傍にいてくれる。それだけで何でも云える気がした。

    (ミカド)

    膝をついたまま、こちらを向いている彼を意識した。
    アルテミシアがこれから告げる言葉は、彼の矜持を傷つけてしまうかもしれない。否、確実に経歴に傷をつけてしまうだろう。 優しくしてくれた乳母の顔も脳裏に浮かぶ。けれど。

    「この度、ミカド将軍を召還したのは他でもありません。将軍職を解き、巡回使に命じるためです」

    ざわりとその場にいたものが顔を見合わせた。巡回使とは帝国の各地の様子を見て回る役人のことだ。 仮にも将軍職にあった者を、巡回使に落とすなど前例がない。ところがイストールだけは興を惹かれたように眼を細めた。

    彼は気付いただろうか。これはアルテミシアが重鎮たちに向けた初めての挑戦なのだと。 用意していた理由を口に出すより先に、ミカドが口を開いた。

    「この度の失態に対し、非常に寛大な処置、心より感謝いたします。アルテミシアさま」

    意表を突かれ、目を見開いた。ジワリ、とその言葉を通して、彼の真意が伝わってくる。 共に戦おうとしてくれているのだ、彼は。

    「なんのことだ?」

    冷然と問いかけるイストールに、殊勝な顔を作ったミカドが向き直る。

    「やがて軍部から報告のあることでしょうが、今回の侵略後の対応に関して、わたくし、ミカド・ヒロユキは大きな失態を犯してしまいました。アルテミシアさまはすでにそれをご存じだったのでしょう。皇宮に戻り、処置を仰がねばと思っていた矢先の召還命令でございました。さっそく家に戻り、支度させていただこうかと存じます」
    「つまり、貴様には答えるつもりがないと云うことだな?」

    ふ、と笑って、イストールは腕を組んだ。相手の意図を図る時に見せる彼の癖だ。 アルテミシアは黙ったまま、目を細めてみせる。イストールの瞳と真っ向から立ち向かう。 だが、イストールはそのまま頭を下げ、彼の真意を隠した。

    「次期皇帝陛下の意に従いましょう。ミカド・ヒロユキの代わりには」
    「すでに他の将軍を任命しております。クルーガー将軍ですが、問題はありましょうや?」
    「……いえ。それでよろしいでしょう」

    クルーガーはツィール侯爵家の嫡男だ。このアルテミシアの花婿候補の第一候補であったことをすでに知っている。

    イストールにしてみれば、せっかくの花婿候補を戦線に差し出すことは抵抗がある。だがすでに侵略を終えた地だ。いかに治めるか、その評価によって次期皇帝の花婿に推薦することが可能となる、その未来を思い描いたに違いない。

    「ではミカド。急ぎ、出立なさい」
    「はっ」

    この場で交わせる言葉はこれだけだった。
    まわりの誰にも気づかれぬよう唇を引き締めて、アルテミシアは歩き始めた。

    (それでも――)

    あなたを窮屈な将軍職に留めるよりは、ずっとましな役職だと感じたのです。
    本当に云いたい言葉を心の奥底に封じて。

    目次