小さな花束

ふわりと香り高い野菜スープを持ち込んでも、魔女が目を覚ますことはなかった。

アルセイドは溜息をつき、ベッドサイドにあるテーブルに食器を置いた。彼女の青白い顔に揺らぎはない。これで丸一昼夜眠っていることになる。長過ぎないか、とは、不安がもたらす呟きだ。わずかにためらって、その小さな額に手のひらを滑らせた。汗は拭き取っている。さらりとした感触の肌は、すでに平熱だ。

そうであるにもかかわらず、魔女は起きない。船室からこの軍の宿舎までずっと目を覚ますことはなかった。前に診察してもらった医者にも診せたが、やはり打つ手がないとのこと。

こうとなれば、せめて竜たちに情報収集でもしておけばよかったか、と後悔している始末である。竜たちが呪いを解く方法を知っている保証はないし、ましてや、アルセイドに応える保証もない。だが頼みになりそうな綱があるのなら、掴んでみるべきだろう。あの島で、そこまで考え至らなかった自分がほとほと情けない。ところが、だ。

「……いい匂いが、する」

ポツリ、と少女の声が部屋に響いたのだ。
はっと顔を見つめれば、ぼんやりとまぶたが動いて金緑の瞳が覗いている。

ふと笑いだしたいような、諦めてしまいたいような、受容の笑みを浮かべながら、アルセイドは小さな魔女に語りかけた。

「野菜スープがある。食べるか?」
「……食べる」

応えて危なげもなく起き上がる少女は、まだ眠気があるのか、外見よりもずっと稚い印象である。
内心苦笑しながら、食器を盆ごと取り上げ、ふと迷った。湯気はまだ立ち上っている。だが温め直した方がいいだろうか。

「そのままでいい」

アルセイドの迷いを見透かしたように、魔女は小さく苦笑して見せた。
云われるがままに起き上がった膝の上に盆をのせる。左手で皿を支え、右手でスプーンで野菜スープをすくう。危なげない動作に今度こそ安心して、アルセイドは部屋のソファに腰掛けた。食器から目をあげた魔女が小さく微笑んだ。

「おいしいぞ。ありがとう、アルセイド」
「違うだろ」
「え?」
「心配掛けてごめんなさい、だ。どのくらい眠っていたと思っている?」

そのあたりを追求すると、困惑したように視線をうろつかせる。
右、左、と部屋の装飾を眺め、さらには窓からの眺めも確認した。
小さな唇をすぼむ。そうしてわずかに渋い表情をしてから、やがてにっこりと笑った。

「心配してくれて、ありがとう。アルセイド?」

微妙に云い換えた言葉を聞いて、アルセイドは横を向いた。たしかに謝罪が欲しかったわけではないから、礼を云われる方がより望ましい。しかし胸の中にわだかまる気持ちが、そのまま口をついて吐き出そうになる。

不安が形になった言葉のはずだった。だが、それはぐっとこらえる。彼女が眠っている間、ずっと考えて決めていたのだ。もう感情のままに八つ当たりはしないと。呼吸を深く繰り返して、野菜スープを飲み続けている彼女に視線を向けた。旺盛な食欲のようで、スプーンが動く速度が速い。焼いたパンも添えればよかったか、と思ったが、目覚めたばかりの身体にそれは毒だろうと沈黙しておいた。視線に気づいたらしい少女が、不思議そうに首をかしげる。

「なんだ、アルセイド」
「なんだ、とは?」
「何か云いたいことがあるのだろう? もうほとんど食べ終えているから、遠慮しなくていいぞ」

そんな云い方をされては、苦笑するしかないのである。

アルセイドはがたんと立ち上がり、まずは盆と食器を取り上げた。言葉通りに空になっている。安心しながらも、その額に手を伸ばすと、わずかに身を引かれた。まあ、当然ではある。ベッドのふちに腰掛け、天井を見上げ、しばらく沈黙を置いた後、魔女を振り返った。

「その呪いは、解くことが出来ないのか」
「ああ……」

魔女の言葉は肯定の言葉ではなく、納得の言葉だった。
困ったようにアルセイドを見上げ、そして視線をそらす。その様子は知っているようにも、知らないと云っているようにも、両方に見えた。善き魔女、と強く呼びかける。溜息ついて、知らん、と呟く。

「知らない?」
「わたしは竜族の魔法には詳しいが、人間がする魔術、呪いの類には造詣がない。だから解き方がわからない」

ただ、と、戸惑ったように胸を抑える。

「おまえとこうして話して、善き魔女と呼びかけられる度に楽になっていく気がする。本当のわたしが、小さくなっていくような……」
「無理はしていないのか」
「ん。本当のわたし、と云ってもあの名前に連なる私でしかないからな。総合的にみて、わたしは無理をしていないはずだよ」
「頼りにならない答えだ」

正直に言葉を返して、だがアルセイドは自分こそ謝っていないことに気付いた。
自らが長針だと云う事実を知って、罵った時の謝罪だ。
身体をひねって、真向いから魔女の瞳を捕らえる。きょとんとした瞳に、アルセイドの真面目な顔が映っている。

「悪かった」
「……なにを?」

戸惑っているわけではなくて、心の底から分らないのだと理解できる。
それもそうだ。相手は一昼夜眠っていたし、後悔はアルセイドだけのもの。唇を開いて、改めて対象を告げるには勇気が必要だった。あえて勇気と呼ばれるものが必要なことに情けなく感じながら口を開いた。

「おまえが俺を、長針として選んだからこそこのルナは滅びに向かっているのか、と罵ったことだ」
「……ああ」

口先では納得したようだが、いまさら? という不思議そうな眼差しは、もはや傷ついていないことを示している。そのことに安心しながら、アルセイドは済まなかった、と頭を深く下げた。

すると、ぽんとその頭に手のひらがのっかり、くしゃくしゃと髪を乱される。その温もりは小さく儚いくせに、思いがけないほどアルセイドの気持ちを楽にする。そこで気付いた。アルセイドが謝ったのは自分自身のためだったのだ。自分自身の気を楽にするため、それに気付いてたまらなくなった。

なあ、と、離れた手を見計らって告げた。

「約束させろよ」
「なんの?」
「おまえをもう傷つけない、と云う約束だ。おまえには借りがある。だからもう、理不尽な感情をぶつけたくない」

すると魔女は、まじまじとアルセイドを見つめた。
たじろぐくらい、素のままの表情をぶつけられたじろぐ気持ちがあった。だがこらえて、その金緑の瞳を見つめ返していると、ふっと鮮やかに魔女は笑った。

「莫迦だなぁ」

ぴん、と、白い指をアルセイドの額でピンとはねる。微かな痛み、だがそこまで痛くない。
額を抑えて、アルセイドが魔女を見下ろすと、魔女は真面目な顔を取り戻した。

「おまえはスティグマの和を成し遂げるのだろう?」
「ああ」

ためらいなく応える。
それはいまだ、事の重大さを理解していないと云うことにもつながるが、気にした様子もなく魔女は続けた。

「だとしたら、あの程度の八つ当たりでおたついている場合ではないぞ。竜族はあるいはもっとも協力的かもしれないが、代替わりするだろうから結果はわからないし、一番の難題は人類だ。帝国皇帝の説得は、おまえだから難しい」
「わかっている。相手は国のトップだ。簡単に出会えるとは思っていない。だが俺が人類である以上、いちばんに説得するべき相手なんだろう? でなければ他種族の理解など得られない」
「だからこそ、あの程度の八つ当たり、問題ではないさ。蚊が止まったほどにも感じぬ」
(泣きそうになったくせに)

とっさに云い返そうとしたが、相手の弱点をつつくような気がして口をつぐんだ。
泣きそうだったじゃないか、あのとき。
結局のところ、自分の八つ当たりで、魔女を泣かせるような羽目になったことが胸を突いているのだとこの時に気付いた。

「嬉しかったんだよ、アルセイド」

しみじみとした言葉に顔を向けると、魔女はあえてアルセイドから視線を外していた。遠くを見据えるような眼差しは、ゆっくりと自分の心を確かめるようで、おぼろにかすんでいる。

「わたしは、人の和を待とうと思っていた。でも難しそうだと云うこともわかっていた。でもおまえはあっさりと人の和どころかスティグマの和を成す、と云ってくれただろう? ……実際になしえるかどうかは別として、その言葉は確かに嬉しかったんだよ」

だから許す、と、続けられて、アルセイドはうつむいた。立ち上がり、盆と食器を持ち上げる。
見上げてきた魔女には、返してくる、とだけ返して、部屋を出た。扉に背中を預けて、ほっと息を吐き出す。

責任重大だ。

だが物事を始めようとする者がそうであるように、いまのアルセイドもスティグマの和が不可能とは思えないのだ。その段階では、なにを云っても空手形にしかならない。具体的な方法を考えながら、ゆっくりと廊下を歩き始めた。

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