宝石

    「サイズ直し、ですか?」

    いつもの講義の後の出来事である。
    イストールが云いだした言葉に、アルテミシアはいぶかしい想いで言葉を繰り返した。端整な顔をピクリとも動かさない教師は、彼女の困惑にも動じたりはしない。淡々と事務的に言葉を続ける。

    「いささか早いのですが、アルテミシアさまの戴冠に合わせて、皇帝の冠のサイズ直しをしたいのです。お願いできますか」
    「確かに、早いですね」

    そう返しながらも、アルテミシアは苦笑している。講義から退出する際に引きとめられることが珍しくて、つい警戒してしまったが、なんのことはない、数ヵ月後の戴冠式に向けた準備によるものだったのだ。

    政務は議会が行い、こまごまとした雑務はイストールが担当している。かつての宰相がこなす仕事としては、という言葉もあるようだが、イストールの淡然とした雰囲気はそうした言葉を寄せ付けない。野心うんぬんよりも、成すべきことを成す。つまりは官僚的なのだな、と、この頃のアルテミシアは思うようになっていた。

    自身を駒にしようとしている点は腹立たしいが、それはイストールに限ったことではない。むしろ彼は、組織にとって理想的な駒、を望んでいるのはないか、とも考えたことがある。それは、私欲に紛れた貴族たちの野心とは、国のためを思っていると云う意味でまた別格といえる。

    「ですが、あなたがそう云うからには必要なことなのでしょう。わかりました」
    「ご了解いただけて、ありがたく存じます」

    頭を下げて、呼び鈴を鳴らす。そうして現れた従者に囁いた。その様を観察しながら、アルテミシアはその話題の冠を思い出していた。

    常に、皇帝の座にある父の頭を飾っていた冠である。
    たしかにあれを自分が被るにはサイズが違いすぎるだろう。

    やがて警備兵をひきつれて、従者がしずしずと冠を持ってきた。
    警備兵は扉の外に待機し、まずはイストールが冠を預かる。そのままの動きで、アルテミシアに歩み寄った。近づくにつれて、ふと感傷的な気持ちになる。

    ああ、この冠をかぶっていた父はもうこの世にはいないのだ。

    「イストール」
    「はい?」
    「サイズを測る前に、冠を持たせてくださいな。少し、重みを感じていたいのです」
    「……かしこまりました」

    イストールは膝をつき、捧げ持つように皇帝の冠をアルテミシアに渡す。
    慎重に渡された冠を目の前に掲げる。紅いビロードの布が張られた冠、その中央には大きくきらめく宝石が輝いている。大きさからは驚くしかないが、これはダイアモンドである。ホープ・ダイア、という異名を持つ。つまりは希望の石だ。かつて帝国創立の際に授けられた、代々の皇帝に祝福を与える石だとも云う。

    アルテミシアはそんな言い伝えなど信じたりはしないが、ただ、この冠を常にかぶらなければならないとは骨が折れるかもしれない、と、いささか俗っぽいことを考えた。わずかに、父の匂いが残っているような気もする冠を、その中央のダイアを覗き込んだ。

    ――アルテミシア。

    「――?」

    ふと、名前を呼ばれた気がして、頭をあげて首を動かした。
    不思議そうな従者と静かにこちらを見つめるイストールがいる。他に誰もいない。

    ――アルテミシア、我が不孝たる娘よ。

    「っっ」

    今度ははっきりと聞こえ、アルテミシアは総毛だった。このしわがれた声は、間違いない、父の声だ。
    冠から、否、中央のダイアから聞こえる。おぞましさから両手を振り払い、冠を手放そうとした。
    だが、身体が動かない。それどころか、自分の手は勝手に動いて、頭に冠をのせようとする始末だ。

    (……あ)

    くくく、と老いた声が笑っている。何が起こっているの、と、声にならぬ声、脳裏で呟くが、それも儚く途絶えようとする。ずしり、と、頭に冠がのった感触がした。だめ、と、いう言葉を残して、アルテミシアは意識を失った。

    だが、実際には皇女は倒れたりはしなかったのだ。

    イストール、と綺麗に紅を塗られた唇が動く。
    低く掠れているため、イストールは一礼して、皇女の前にひざまずく。

    「アルテミシアさま?」
    「やはり重いようだ、この頭には」

    低く呟かれた言葉は、イストールの耳にしか届かない。イストールは振り返って、従者に告げる。

    「アルテミシアさまの頭にやはりこの冠は重いようだ。ティアラ仕立てにするため、待機させている職人を連れてこい」
    「はっ」

    一礼して従者はその部屋を退く。
    扉がきちりと閉じられたことを見届けて、イストールはひざまずいた主に囁きかけた。

    「お戻りでございますか、我が君」
    「本気で云っているのではあるまいな、イストール。我はこのダイアに残されたエイリアス。とうに亡くなったアルシード・ド・メディシエの記憶から分かたれた分身に過ぎぬ」
    「それでも、私が忠誠を誓った御方には違いありません」
    「愚か者め」

    すらりと皇女は立ち上がる。可憐さと温かみが同居した美貌には、冴え冴えとした冷徹さが漂っている。
    かと思えば、にこり、と、冠を外しながら常通りの微笑みを浮かべる。それはまったく、いつも通りのアルテミシアの微笑だ。

    「いずれにしても、我が娘の内に記憶を宿らせることには成功した。記憶とは人格を構成するもの。これより我が娘はふたつの性格を持つようになるであろう。本来のものと、我のものと。くく、皮肉なものよな、同じ名前を抱いているとはいえ、かの魔女と似た存在となるか」
    「我が忠誠は、共に歳月を過ごしたあなたさまのものでございます」
    「愚直な奴よ。それでこそ、一族を追われても我についてきたおまえらしいか」
    「当たり前でございます」

    イストールは初めて心からの微笑を浮かべて見せた。
    その微笑を受け止め、皇女は忠実な臣下に手を差し伸べる。白い手に口付け、そしてイストールは立ち上がる。それを見計らったように、皇女の華奢な身体は彼の腕に倒れこんだ。

    扉が開かれ、従者と職人が現れる。
    あっと立ちすくむ彼らに、イストールは緊張すら漂わせた顔で次なる命令を下した。

    「アルテミシアさまが倒れられた。至急、侍医を呼べ!」

    はっとかしこまり、たちまち動く彼らは、もはや床に転がる冠に注意を払わない。皇女の身体が慎重に運び出された後、1人残されたイストールは静かにそれを持ち上げ、くるりと乱雑に回して静かに笑った。

    「策は二重三重にうっておくもの。アルシードさま、あなたさまのお言葉は今なおこの国を導くようでございます」

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