道化師

新たな帝国皇帝が即位し、他国への侵略を再び始めた――。

新たなニュースが朝から街を騒がせている。
朝食を買うために出かけたアルセイドは、ざわざわと落ち着かない心地でいる。
思いだしてしまうのは、人ひとり残らず滅ぼされた故郷、踏みしだかれた白い可憐な花、失われた彼自身の家族だ。

しかし感傷にとらわれてばかりではいられない。
今回の侵略には、明確な目的が加えられている。
古き種族を率いる魔女の討伐。

新たに加えられた部分を知り、ざーっと血が冷えていく感触がした。
まぎれもなく、あの小さな魔女を目的とした侵略だと、広く、このセレネに知らしめたのだ。気のいい船員たちの顔が脳裏を通り過ぎていく。竜が実在すること、そしてその竜と親しく振舞っていた魔女のことを知っている彼らは、この目的を聞いた時にどう感じただろう。また、あのギルドマスターは。

彼女たちは自分たちに好意的だが、それと街への義務は別物のはずである。

そう考えると、いてもたってもいられなくなり、買い物も半端に済ませせ、宿舎に戻った。魔女の身が気がかりでたまらなかったからだ。与えられた私室に向かいながら、ここにいつまでもいられない、と考える。

しんと静まった廊下にはすれ違う兵士の数も少ない。会議が行われているのか、あるいは、訓練が行われているのか。いずれにせよ、彼に対する変化は今のところ見つけられなかった。それでも開いた扉の先、椅子にちんまりと座って彼を待つ魔女の姿を見て、アルセイドは心からの安堵を覚えた。

「……いたのか」
「あたりまえだろう。朝食を買いに出かけたおまえを置いて、わたしがどこに行くと思うのか」
「朝食は簡単に済ませよう。それより、この街を急ぎ出なければ」
「なにがあった?」

ミルクパンと飲み物を差し出しながら、簡単に事情を説明する。見る見る内に顔をこわばらせていく魔女は、帝国宰相の名を聞いたときにぽろりとパンを手から落とした。幸い、床には落ちていない。拾って、新しいパンを渡しながら、その顔を振り仰いだ。はっきりと青ざめている顔は、うめくように帝国宰相の名前を呟く。

「イストール、だと?」
「ああ。姓なのか名なのかはっきりとはしない。ただ、イストールとしか知られてないが、先の皇帝の時代から宰相をしている」
「同じ人物か?」
「まさか。先のイストールといまのイストールは別人だと聞いている。先のイストールが亡くなった後、養子として迎えられていたのが今のイストールだと。優秀な成績で帝国学校を卒業し、養父と同じように引き立てられたらしい」
「それが確かなら、勘違いなのかもしれぬ。だが、もしわたしの記憶が正しければ」
「善き魔女?」

魔女は食事を中断して、出立の準備を進めるアルセイドを招き寄せる。気が急いたが、重大な話だ、と云われてしまえばそれまでだ。真向いに座ると、かつてないほど緊張していることが分かり、アルセイドは心から驚いた。落ち着いて聞け。わずかに震える声で告げる。

「わたしの記憶が正しければ、イストールとは、エルフの一族の名前だ」
「……なに?」
「つまり、我らが協力を仰がなければならぬ、このセレネの種族、エルフの長の一族の姓がイストールなのだ」

最初意味が通じなかった言葉は、次第にアルセイドの脳に浸透していく。

意味を完全に理解した時、思わず叫び出したい衝動に駆られた。彼らが目指すべきスティグマの和。その第一歩である帝国皇帝の説得は不可能だと思い知らされたばかりだ。

だがその傍らに、遥か古に人類の滞在を拒んだと云うエルフの一族の者がいることまでは想定していない。
このセレネからの、人類たちの一刻も早い退去が目的か。瞬時に頭によぎった推測は、しかし根拠が皆無と云ってもいい。いずれにせよ、たしかなことは。

「このセレネ本来の種族さえも、帝国皇帝の侵略に力を貸していると云うことか?」
「わからぬ。あるいは帝国皇帝に力を貸しているのはひとりきりなのかもしれぬ。だが我らが思っていたよりも、事態はずっと複雑なようだ」

どうする、と口に出しかけて、アルセイドは口を閉じた。
それは、スティグマの和を成すと心決めたアルセイドが考える問題だ。

竜たちから長針と呼ばれたとしても、アルセイドは本来の自分を忘れてはいない。滅ぼされた街の自警団の生き残り、それがアルセイドだ。英雄でもなければ、勇者でもない。賢者でもない。ありふれた凡人なのだ。

そんな自分でも出来ることは、ただ真実を広めること、人を説得すること。この世情を顧みれば、浮世離れした発想と云えたが、現実にはそれしかないと見極めていたのだ。

「――学園都市、ルホテに行こう」
「学園都市?」
「俺たちは知らないことが多すぎる。だからおまえの知識と帝国の歴史、すべてを照らし合わせてみよう。そうしたら見えてくる真実があるかもしれない」
(そしてあるいは、おまえの呪いを解くすべも見つかるかもしれない)

その言葉は結局口に出さないままだった。

学園都市はまともな知識を蓄えている場所である。魔術だの呪いだの、胡散臭い知識があるとは思えない。だが、大陸随一の知識を蓄えている場所であり、帝国の侵略を免れている場所でもある。

この街にいて対策を考えるよりは、たしかな知識を蓄えたいと思ったのだ。アルセイドは英雄ではない。だが凡人なりに知識を蓄えることは出来る。

アルセイドの提案に、魔女も興味を誘われたようだった。沈黙のまま考え込み、そして頷く。そうだな、と呟く顔がようやく明るくなったので、アルセイドはその手にパンをのせてやった。きょとんと彼を見上げ、それから笑顔を取り戻してパンにかぶりつく。少し笑ってアルセイドは旅支度の続きに戻った。

だが、彼らの方針決定は、いささか呑気に過ぎたのである。

前触れもなく扉が開かれる。はっと魔女を背にかばいながら、アルセイドは扉に相対した。
現れたのは艶麗な美女、そして、この街の軍を預かる隊長だ。
その顔つきを見て、ダメだ、と一瞬で事態を悟る。厳しく引き締まった顔を見れば、彼らは正しく、帝国の目的が背後の魔女だと云うことを察していることがよくわかった。

呑気な自分を叱咤しながら、背中のシャツを握りしめる感触に、気分を引き締める。
守らなければ、と反射的に思う。

長針と短針、2人の関係がそれだと云うのならば、長針としての生き方を選んだ自分には決して失ってはならない存在だ。

「――どうやら、こちらの考えを察していたようだな」

まとめられていた荷物を見て、隊長は苦い調子で呟く。艶麗な美女はぱちんと扇を閉じた。

「まるで後ろめたいことがあると云っているかのよう。けれど、坊や。考えが甘かったねえ。逃げられると思っていたのかい?」
「逃げるつもりはない。俺はただ、スティグマの和を成したいだけだ」

知らない単語を聞いた2人は、いぶかしげな表情を浮かべる。
そうだ、と、その様を見ながらアルセイドは思った。自らは決して英雄ではない。実績もない。ただ、運よく生き残ることが出来た若者、それが彼らの認識であり、事実だ。

そんな自分が、それでもスティグマの和を成そうと心決めたのだ。力によらず、ひたすら言葉による説得を繰り返して。シャツを掴んでいた腕がするりと外れ、そっと魔女はアルセイドの左隣に移動する。かすかに左手に触れる温もり。

金緑の瞳と視線を交わす。手と手を触れさせ、指を組み合わせた。
そしてアルセイドは口を開いた。

「話を聞いてください。長い話になります。ですが、帝国侵略の目的の意味を理解する助けにはなると思います」

たちまち街の重鎮としての表情を取り戻した2人は、アルセイドと魔女を見定めようと厳しい眼差しを向けてくる。きゅ、と、左手に力がこもった。魔女のことを想えば、帯剣した腰に彷徨いそうな右手を必死で押しとどめられる。そもそも、どちらもかなう相手ではない。

ならば真っ向から、思うことをぶつける。説得する。利用されることは嫌だが仕方がないと割り切る。利用されることすら、目的を遂げる手段にするのだ。心で呟きながら、ただ、左手の温もりは手放さないでいよう。アルセイドは心定めていた。

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