ペルソナ

    「下がれ!」

    宰相閣下の言葉に、皇帝付きの侍女たちはいっせいに従った。あわてて閉じられた扉に、がしゃーんと何かが叩きつけられる音がする。 ほう、と息を吐き出したひとりの侍女が、おびえを隠しきれない様子で別の侍女に話しかける。

    「このところ毎日、ね。アルテミシアさま」
    「ええ、そう。ああしてヒステリーを起こして、イストールさまに物をぶつけられるの」
    「お優しい方だと思っていたのに、所詮、わがままな皇族でしかなかったということかしら」
    「そもそもご自分の身が可愛くて、先の皇帝陛下を諌めなかった方だもの。もともと神経が細いのよ」

    女主人の行動に恐れおののいた侍女たちは、感じた恐怖を振り払おうと遠慮のない陰口に突入する。

    すべての侍女がそういう行動にあるわけではない。ごく一部の侍女たちだ。他の侍女たちは思うところを隠して、それぞれの仕事に向かう。残された侍女たちは、被害を受けている宰相による緘口令が敷かれているからこそ、同情からの陰口にいそしむ。このときもそうだったが、ついにたまりかねたようにひとりの若い侍女が彼女たちに向かい合った。

    「ちがうわ! あれはアルテミシアさまじゃない。何か、別のひとよ」

    すると顔を見合わせた侍女たちは、ぷっと吹き出して、その若い侍女を取り囲む。
    唇をゆがめて、眼差しには嘲りが浮かべている。

    「へえ? それじゃあ、他のどなただって仰るのよ、マーヤ?」
    「夢見がちな子ねえ。この間読んだ本の内容を信じているのよ。悪魔憑きの本、だったかしら?」
    「やあだ、それって怖い。時代錯誤もはなはだしいわ。この時代に悪魔なんているはずないじゃない」
    「いい加減にしなさい、あなたたち」

    囲んだ侍女に次々と悪意ある言葉を浴びせる彼女たちの背後から、ぴしゃりとした声が響く。
    銀色の髪をひとつにまとめた侍女だ。冷ややかなまなざしをぐるりと向けて、ぱっと包囲を説いた侍女たちをひとりひとり、見つめる。

    「レオノーラ、ギャルシィ、ローラ。無駄口を叩いている暇があるならさっさと仕事に戻りなさい。マヤ、あなたもよ」
    「でも、パオラ先輩」
    「でもも何もありません。本分である仕事をほうって、いかなる言い訳も許されません。早く仕事に戻りなさい」

    ぴしりとした言葉に反論するものはさすがにいない。それぞれの感情を隠さないまま、それでも仕事に向かう。ただ一人、マヤ、と呼ばれていた侍女だけがその場に残っていたが、扉越しでも聞こえる女主人の叫び声に耐えかねたように踵を返した。

    その扉の内側では、扉の傍で外の気配をうかがっていたイストールがくすりと笑う。はあはあ、と肩を大きく揺らしている皇帝陛下に揶揄の視線を向けた。

    「――予想以上に、あなたの人望は高いようですね、アルテミシアさま」
    「黙りなさい、恥知らず!」

    穏やかに発声されれば鈴のように響くだろう声が、ひび割れた声となって発声される。そのことに傷ついたように、アルテミシアは唇を噛んだ。がくりと敷き詰められたじゅうたんに膝をつき、激情を押さえかねたように指をじゅうたんに立てる。その前に立つ靴がある。ぐい、と、無遠慮にあごを持ち上げられ、容赦なく親指を突き入れられた。涙のにじむ瞳でアルテミシアは相手を睨む。

    ほとんどの時間を得体の知れない人格に奪われている。それでも自分を取り戻した際に、こうして狂気を演じて退位を企もうにも再び宰相の地位に着いたこの男が緘口令を敷く。せめて舌を噛み切ろうとすれば、こうして阻止される。さまざまに手を打とうとしている間に力尽きて眠ってしまう。すると目覚めたときには、すでに命令は下され、新たに攻め落とされた都市の名前を聞く羽目になるのだ。たまらない。

    もはや、目の前に立つ男に、いかなる好意をもつこともできなかった。

    自らをだまし、得体の知れないモノを自らに宿らせた男。あれが父であると、イストールは告げる。信じられるものか、と、強気に云い切るには、あのときに響いた声の記憶は鮮明だった。我が不孝たる娘。はっきりと告げた老いた声。確かに父の声だった。

    しかし。

    「父だから、なんだというのです」

    親指を引き抜かれて、ようやく反論の言葉をつむぐことができる。イストールはつい、と目を細めた。

    「たとえ父だとしても。すでにこの世を去られた方です。他の誰もがそうであるように、もはやこの世で何かをなす権利などない!」
    「温和で気高いと評判の姫君とも思えぬお言葉ですな。それが父君に対するお言葉ですか。薄情な」
    「わたくしはこの世の誰もが甘んじている事実を申しているのです。父上は亡くなられた。ならば大人しく眠りにつくべきでしょう」
    「不本意な死でした。魔女が目覚めなければ、皇帝陛下は亡くなられることはなかった。魔女ごときを呪う必要などなかった」
    「っ」

    かつてのアルテミシアならともかく、今のアルテミシアにはその単語を否定することはできない。もはや父と呼ばれるモノの記憶が彼女の中にあるからだ。滅びに向かっているセレネ、それは事実だと知っている。

    だが、父たちは魔女を討伐するために侵略をしているわけではない。魔女は排除可能な不確定要素に過ぎない。父たちが侵略しているのは、――。

    「さまざまにお考えになることはおありでしょうが、だからこそ、眠られたほうがよろしいでしょう」

    その言葉にぞっと青ざめる。いつの間にか、イストールの手には杯が握られている。
    いや、と、うめくようにアルテミシアはつぶやいた。
    眠りたくない。眠って目覚めたら、再び、不本意な命令の結果を聞く羽目になる。

    ――この肉体が、自分以外の意思によって動くことを甘んじなければならなくなる。

    アルテミシアは皇帝の座についた。けれどもその実、アルテミシアはイストールの、否、父の都合の良い駒でしかない。

    (ミカド……!)

    心の底で、もっとも信頼する人の名前を叫んだ。なりふり構わず、助けて、と続ける。
    決して届かない声、それでも呼ばずにはいられない。わたくしを、助けて。2度、つぶやいて、涙が再び零れ落ちた。

    情けなかった。彼の信頼に応えられる皇帝であろうと思っていたのに、現状では、ただ、助けを求めることしかできない。

    伸びてくる腕から逃れようと、それでも絨毯の上を這いずりあがるように後ずさった。目の前の靴がドレスのすそを踏み、かがみこんだイストールは強引にアルテミシアを抱き寄せる。口元に杯を押し付けられ、必死で首を振った。腕を使って払おうにも、細身に思えたイストールの腕力は案外強い。片腕でアルテミシアを抱きすくめたまま、杯を安全な位置に持ち上げられる。ち、と舌打ちする音が聞こえた。

    「強情な」

    忌々しげにつぶやいて、イストールは杯を仰いだ。そして皇女のあごを押さえつけ、唇を押し付けてくる。
    たちまち流れ込んでくる液体、そして冷たい唇の感触に、アルテミシアはおぞましさを感じずにはいられなかった。

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