世界

翠色の瞳がすうっと細められた。綺麗に紅を塗られた唇が開き、そして閉じる。険呑な光がその瞳に宿り、雄弁より恐ろしい沈黙が帝国皇帝のまわりに落ちた。

怒っているのだろう、とアルセイドは冷静に感じていた。
価値もないと云われて怒らぬ人間はいない。だがそれでもアルセイドは構わなかった。

この相手に復讐する価値がないように、自分が皇族であることにも価値はない。一瞬とはいえ、背後に隠した魔女のことも忘れ、このまま不敬罪で捕まって処刑されてもかまわないような気もしたのだ。思ったことをそのまま告げた結果なのだから。

だが、背後にかばった魔女はそうは思わなかったらしい。

背中から温もりがすっと消える。代わりに魔女はベッドから立ち上がり、アルセイドの隣に立った。
アルシード、と皇帝に呼び掛ける。

それは不可思議な声音だった。冷やかであるのに、根底に温かさがある。
中途半端と云い換えることも出来た。

「いずれにしても、この世界はすでに崩壊を始めている。管理者たるおまえが住むこのあたりには影響はまだ少ないだろうが、辺境では崩壊は始まっているだろう。そしてそれを抑える術は、竜族にもないのだ。もはや今の竜族に、このセレネ全体を覆える魔法をかけるほどの魔力を持った存在はいない。おまえは空論の夢想を並べ立てて罪もないひとを殺しているだけだ」
「わずかでも希望があれば、すがりたくなるのが人間という生き物ではありませんか、善き魔女どの」

扉の傍に立っていた男が初めて口を開いた。アルセイドは改めて視線を向ける。端正な男は、それでも表情を崩さない。他人事のように、というよりも、あらかじめ用意していた説得の文句を口にしている、そんな印象があった。

「希望などない。それともおまえたちが掲げる侵略の目的を真実にしてほしいのか」

ぎょっとしてアルセイドは魔女を見下ろした。
大言を吐いたと云う雰囲気はなく、ごく落ち着いた雰囲気である。
ふ、と、帝国皇帝が愉快そうに微笑んだ。

「わざわざでっち上げの嘘を真実にしてくれると云うのか、魔女」
「望み通りにしてやるのだ、嬉しいだろう?」
「だが誇り高い竜族が、所詮は人間に過ぎぬおまえの言葉に耳を傾けると思うのか」

ふ、と今度愉快そうに笑ったのは魔女の方だった。

「支離滅裂だな、アルシード。耳を傾けぬかもしれぬ。だが、やってみる価値はある。わたしは竜族に認識されている短針だ」

だが、と魔女は言葉を続ける。

「あえてそれはしない。なぜならここに、スティグマの和を成すと告げた男がいるからだ」

帝国皇帝とイストールの視線とが、同時にアルセイドに向かう。
その眼差しはそれまでのものとは多少異なる雰囲気を漂わせていた。侮りがきれいに消えている。
ふ、ふふ、と帝国皇帝は笑ったが、その響きには多少のひび割れがあった。

「スティグマの和? 事態の重大さをわからぬものほど良く云ってくれる」
「わたしもそう思ったよ。だが、その為にわたしは力を尽くすつもりだ。もともとそれが最も望ましい形なのだからな」
「きれいごとですね」

突き刺すような、冷ややかな声音が響いた。イストールだ。不思議なことに帝国皇帝より彼の方が落ち着き払っている。アルセイドはだから彼に向き合って、告げた。

「きれいごとの何が悪い?」
「!」

眼を開いたイストールに、たたみかけるようにアルセイドは言葉を続ける。

「俺が目指すのはきれいごとさ。わかっている、そんなこと。だがな、汚水をすすってでも生き抜いてきた人間にはきれいごとが必要なんだよ。自分が汚い人間だと嫌悪してしまうから、きれいごとを唱えて自分を清めたいと思うんだ。それでようやくましな人間だと、価値がある人間だと云い聞かせないとやっていけない。なぜなら本当は自分が汚い人間だと認めたくはないからだ」

――アルセイドには、亡き家族にも魔女に告げていないこともある。

自警団に入るまで。正確には自警団の団長に拾われるまで、どこで何をしていたのか。

アルセイドは盗賊団の一味だったのだ。
それもか弱い子供に同情し、招き入れた金持ちの家のカギを開け盗賊を招き入れる役目を負った子供。

人の情けに訴え、恩を受けながら、その恩をあだで返す。
それが、長針とやらの運命によって捨てられたアルセイドの、いちばんはじめの人生の記憶だ。

いまさら綺麗になるはずもない。
皇族であるという事実が、その過去を打ち消してくれるはずもない。

その過去を赦せるのは、大切な人間を笑わせるときだ。
喜ばせるときだ。守っているときだ。

だからアルセイドはスティグマの和を成す。
確かに困難なことなのだろう。だが、自分自身のためにも成し遂げると決めたのだ。

「――所詮、人間もエルフも醜い存在です」
「知っているさ。俺も醜い。だがそれが事実なら受け入れて何が悪い? 醜いことが当たり前なら、そもそも苦しみやしないだろう」

それでも宝玉のように、うつくしい瞬間がもてるからこそ、己の醜さに苦しむのだ。

「アルシード」

魔女が改めて口を開いた。こちらも動揺のかけらもない。
ふと思い出した記憶があってアルセイドは唇に笑みを刻んだ。

――ただ、こいつの戦いぶりにすべてを賭け続けることにしているからだ。

魔女は初めからそう云っていた。
そう、云ってくれていたのだ。アルセイドのことをろくに知らない時から。

「最後に聞く。ガイアとセレネをつなぐ橋は本当に破壊したのか」

それは初めて聞く事実だった。
アルセイドが目を見開いている間に、落ち着きを取り戻しつつある帝国皇帝が返した。

「ああ。たしかに破壊した」
「……そうか」

そういうなり、魔女はくるりと帝国皇帝に背を向ける。扉の前に立つ、イストールに手を伸ばし、――。
……正確なところは、魔女が何をしたのかアルセイドには分からない。だがくたりとイストールはその場に崩れ落ちた。

「アルテミシア!」
「善き魔女!」

アルセイドが呼びかけたのは、皇帝の呼びかけによる呪いの発動を抑えるためである。
魔女は帝国皇帝を振り返り、スッと目を細めた。強烈な意志が、その面を覆っている。

「こ奴を助けてほしくば、我ら2人を解放するがいい」

ふん、と帝国皇帝は鼻で笑う。
そのような条件、受け入れると思うのか。言葉に出さずとも、態度で示している。

だが、今度はアルセイドの番だ。
服のポケットに手を突っ込み、ボタンを押す。たちまち、爆発音が響き、室内が大きく揺れた。

態勢を崩す2人の少女のうち片方に手を貸しながら、「衛兵!」とアルセイドは声を張り上げた。
たちまち扉の前に人の気配が集まる。

「いまのは何事だ。急ぎ応えよ!」
「はっ! 何者かが爆発物を皇宮内に仕掛けたよし、ただいま火の手を消している最中でございますっ」
「ではただちに皇帝陛下を安全な場所にまで案内せよ! イストールどのが倒れられているので至急、医師の手配も」
「はっ! では、失礼いたします」
「ま、待て。わしは――」

ただちに扉が開かれ、どやどやと衛兵がなだれ込み帝国皇帝を取り囲む。
陛下、と呼びかけられ、安全な場所に運ばれる。帝国皇帝がいかに抗弁しようとも、皇帝大事の彼らの耳には届かない。同時に、イストールは慎重に運び出される。

そして残された貴賓室で、アルセイドは魔女と顔を見合わせた。ふ、と、魔女は笑った。

「詐欺師の才能にも恵まれているのではないか、アルセイド」
「うるさい。それよりこの場から急いで脱出するぞ。俺が何者なのか、戻ってきた衛兵に追及されてはまずい」
「では、この皇宮にある転送装置を使うか。長く使用していないから、扱いには多少の不安があるがな」
「テンソウ、ソウチ?」
「行けば分かる。行くぞ!」

そういうなり、魔女はドレスの裾をからげて走りだした。アルセイドは苦笑し、その後を追いかける。
確かに今は、些細な疑問を解消するより逃げることの方が先決だった。

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