勇者と魔王

「彼らは逃げだしたようですね」

帝国皇帝の私室である。

カウチから呼びかけると、医師の制止を振り払ってきたのだろうイストールが眉を寄せた。落ち着き払ったアルテミシアの様子を見て、くっと喉が音を立てる。相手は彼の主ではない。アルテミシアだと気付いたのだろう。忌々しげに視線をそらす、その様子に微笑みを浮かべた。常ならばヒステリーの対象となる相手だが、今日はそのつもりにはならない。

「安心しました。わたくしが知らしめなくとも、この世界の民のために動く方がいることを知ることが出来て」
「残念ながら甘い考えですな。彼らの行動が成功すると本気でお考えか」
「考えておりますとも。なぜならわたくしが、あなたに協力すると云っているのですから」

アルテミシアが告げた言葉が、イストールは理解できなかったらしい。
一瞬眉をひそめ、そして目をみはった。彼女の言葉が信じられなかったらしい。
ある手御しあは微笑みを浮かべたまま、さらに言葉を続ける。

「スティグマの和、成そうと思うものがいるのならば、わたくしは人の和を求めて侵略いたしましょう。今度こそ、心が定まりました」
「アル、テミシアさま」

意外そうに呼びかけてくる。すらりと立ちあがり、イストールの前にまで歩み寄った。
ただし。そう告げて、微笑んだまま言葉を続ける。

「それはスティグマの和を成すためです。その為にわたくしは、人に憎まれる魔王となりましょう。そして彼らは勇者に」
「……莫迦なっ」

表情を変えて叫ぶ男から視線を外し、ゆっくりと窓際に近寄った。
ガラスに映る自分の表情を見つめながら、背後の男に言葉を返す。

「どうしてそこで激昂するのです? わたくしはあなた方の望み通りに自分の意思で侵略すると云っているのですよ?」
「あなたは、……あなたはご自分が何をおっしゃっているのかわかってらっしゃるのか。あなたには義務がある。次代の管理者を産むと云う義務が。このセレネを統べるものを産み出すと云う義務が」

ちらりと冷ややかにアルテミシアはイストールに視線を流した。

「ガイアとセレネをつなぐ橋を壊した、資格喪失者の管理者にそれを云う権利があると思うのですか」

ゆっくりと体の向きを変え、両手を組んでイストールに向かう。
面にはもはや微笑みを浮かべてはいない。冷やかにイストールを見つめている。

「父上は管理者としての義務を放棄された。ならばわたくしはその娘として、義務を果たしましょう。責務を放棄した管理者の娘として、このセレネを侵略し、彼らに討たれましょう。それが管理者の責任と云うものです」
「……、あなたは」
「下がりなさい、イストール。もはやわたくしは父の人格などに支配させません。わたくしの意思のままに世界に憎まれましょう」

イストールはぼうぜんと立ち尽くし、だが、やがて一礼して私室から出ていった。言葉が見つからなかったのだろう。その扉が閉じられるさまをしっかり見届けて、アルテミシアはふうと息を吐き出した。そしてクローゼットに視線を向けて呼びかけた。

「出てきてください、ミカド」

ぎいと開いたクローゼットから姿を現したのは、ミカド・ヒロユキだった。彼はあらかじめアルテミシアに呼び出され、そこに潜むことを命じられたのだ。青ざめている。クローゼットから出て、ぎゅっと拳を握りしめた。

「アルテミシア」

にこりとアルテミシアは微笑む。自棄になっているつもりはなかった。立ち尽くしているミカドに歩み寄り、その腕に手を添えた。すると思いがけないほど強い力でその手を握りしめられる。微笑みをいっそう深めて、アルテミシアは告げた。

「そんな顔をしないでください、ミカド。わたくしは自分で決めたのです」
「このセレネを侵略し、他の国の人間に憎まれることをか」
「他の国の方々の意思をひとつにまとめる方法を選んだのです」
「……おまえに、こんな選択をさせるためにあの2人を逃がしたわけじゃない。今からでも……っ」
「許しません」

凛然とした声音が、ミカドの動きを止める。
ミカドは目を見開いた。厳しい表情を務めて浮かべ、アルテミシアは彼に向かう。

「いかなる理由があろうとも、あの2人に手出しすること、わたくしは許しません。ミカド兄さま」

懐かしい呼称で呼びかけられ、ミカドはくしゃりと顔をゆがめた。

幼いころ、身分の違いを理解できないアルテミシアは、乳兄妹であるミカドをそう呼びかけたものだった。その度に注意され、けれど直そうとしなかった呼称を呼び掛けたのはずるいやり口だと自覚している。

けれど父の記憶に踊らされ、数多くの人の命を奪う命令を下してしまった自分がようやく見つけた償いの方法なのだ。

乳兄妹であるミカドにも、もはや口出しはさせない。アルテミシアは愚かな侵略をした皇帝として、人の意思をひとつにまとめる。そしてその後、ひとつにまとまった人類の意思を、あの2人に委ねる。

不可能と思われていた、スティグマの和を成すと告げた同族の少年と、長きにわたってこのルナで眠り続けてきたガイアの魔女に。それがアルテミシアがようやく見つけた、操り人形から脱する方法なのだ。

ぎゅっと握りしめられたミカドの手がゆっくりと動こうとする。
その動きから身を引いて、さらにアルテミシアは声を張り上げた。

「ミカド・ヒロユキ。再び将軍として任命したあなたに、他の国への侵略を命じます。なお、手心を加えることは一切許しません」

ミカドは痛みをはらんだ眼差しでアルテミシアを見つめていた。
その眼差しを見つめていると、決意を翻したくなる。

けれど、長い時間見つめ合って、ようやくミカドは膝をついた。
アルテミシアのドレスの裾を持ち上げ、口づけて呟くように告げる。

「――どこまでもおまえと共に。アルテミシア」

一瞬だけ、その言葉の響きにまぶたを閉じる。
そしてまぶたを開き、天井を見つめてこぼれおちそうな涙を抑えた。

本当は怖いのです。思わず訴えそうになった言葉を、唇を閉じて封じ込める。
大きく息を吸って、吐いて。

「ではいそぎ、赴任地に向かいなさい。クルーガー将軍に委ねた幕僚を連れ戻すことを許可します」
「ありがたく」

そうしてミカドは立ち上がり、アルテミシアを見ないまま隣を通り過ぎた。
顔を見られたくないと云う気持ちをわかってくれたのだろう。アルテミシアはようやく涙をこぼす。

ひと筋、ふた筋。次々とこぼれおちる涙は、天井を向いていても収まる気配がなかった。

(アルテミシア、我が不孝たる、そして愚かな娘よ)

自らの内側から響く老いた声。
だが、もはや自分の意思を奪わせないとアルテミシアは心定めている。

「死者、それも記録されたデータに過ぎない声が何を悪あがきしているのですか」

白い頬を涙で濡らしたまま、アルテミシアはさらに独り言としか受け取られないだろう言葉を続ける。
これは父の亡霊などではない。強制的に宿らされたもう一つの人格、――アルテミシア自身の声なのだ。

「もはやなにも渡しません。この帝国も、セレネの運命も、皇帝としての責務も。あなたのおかげで目が覚めました」

そしてアルテミシアは窓の外を眺める。初めて目にした、運命の長針と短針。
アルテミシア自身も知らないこの皇宮のシステムを利用して逃れた彼らは、いまどこにいるのだろう。

「スティグマの和、必ず成してくださいね。その為にはせめて魔王となるわたくしを利用してくださいな、勇者さんたち」

アルテミシアはそう呟いて、ゆっくりと涙をぬぐった。
涙はもはや流れない。綺麗に彩られた唇には笑みさえ浮かんでいた。

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