裏切り

久しぶりに会うミカドは少しばかり、様子を変えていた。
頬がやせていることもあるが、眼差しの鋭さが増している。

将軍、と呼びかけそうになって、エミールは、その張り詰めた空気に口をつぐんだ。彼は今、シーナの報告を聞いている。例の、雨量の問題だ。難しい顔をして聞いている。ところが少しばかりの違和感をエミールは覚えた。理由を探っていて気付いた。ミカドの笑顔を一度も見ていないのだ。

「――なるほどな。それがスラム人員激増の理由か」
「はい。クルーガー将軍はそのままで良い、とおっしゃられておりましたが、ぜひ」

平民出身のシーナがすがるような眼差しでミカドを見つめる。つい、とミカドは視線をそらした。瞑目し、沈黙がわだかまる。すがるようなシーナの表情が、不安を浮かべたものに変わっていく。エミールも眉を寄せた。

ミカド将軍は、どこかおかしい。役目をおろそかにすることはないが、どこか精彩が失われている。

「将軍?」
「聞こえているよ。だが、スラムの問題はそのままにしておいてくれ、シーナ」
「っ」

鋭く息をのむ音が聞こえた。いけない、と思う間もなく、シーナがミカドの襟首をつかむ。

「いったい何なのです、あなたは! 戻ってくるなり、自らが下した政策を撤回し、挙句スラムまで放置ですか。それが民たちの憎悪の感情を育てていることに気付かないあなたではないでしょう!」

するとミカドは、複雑な視線でシーナを見下ろした。襟首はつかまれたままだ。

ゆっくりと両手で彼女の手を掴み、自分の襟首から引き離した。なんともいえぬ、不可思議な表情。気付いたシーナは、はっと我に返り、唇をかむ。ふう、とミカドの唇からため息が漏れた。

「シーナ。我々の仕事はなんだ?」
「軍務です。帝国の敵を討ち果たすことを役目としております」
「ならば答えは一つだ。民たちが反乱を起こすようであれば、ただちに敵とみなしこれを討て」

息を呑んだのは、その場にいた全員である。

苛烈な命令、だがそれはこれまでのミカドが下したことのない類の命令なのだ。怒りよりも悲しみよりも困惑からシーナは後ずさり、代わりにシュナール老が進み出る。エミールがはじめてみるほど、厳しい表情を浮かべていた。

「ミカド坊主。それはお主の名声を地に貶める命だと気づいておるか」

ミカドは微笑んだ。
痛みをこらえているようにも、そんなことはとうに知っているとでも云いたげな落ち着き払った表情である。

唇が開いた時、エミールは期待したものだ。何らかの釈明が成されることを。
だが。

「シュナール老。それ以上の意見は、越権行為とみなしますがそれでよろしいか」
「将軍!」

悲鳴を上げるように呼びかけたのはエミールだったか、シーナだったか。
シュナール老の瞳に、ひどく冷ややかな軽蔑しきった光が浮かぶのを見た。ほ、と小さく笑い、背中を向ける。ずっと沈黙していた攻撃隊長がそれに続いた。

「シュナール老、どちらへ」
「さての。どちらにせよ、将軍様の元にはおれぬわ。馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
「俺らが仕えていたのは、人の情理をわきまえていた将軍だ。そうでないなら従う理由はない」
「そんな、待ってください、お2人とも」
「追うな、シーナ」

動きかけた副官の動きを止めようとミカドは呼びかける。きっとシーナはそんなミカドを振り仰いだ。

「失礼ながら、ふぬけた将軍殿にわたくしを止める権利はございません。軍のためにもあの2人、引きもどしてまいります」

そうして走り去ってしまう。残るのはミカドとエミールだけになってしまった。
ミカドは瞑目して腕を組んでいる。エミールを顧みない。
その様子が悔しくなって、つい、唇を開いていた。

「どうしてですか?」

パチリと灰色の瞳が開く。

「どうして急に僕たちの期待を裏切るような真似をなさるんですか。僕たちは、一日千秋の想いで将軍のお帰りを」
「俺は何も裏切ってねえよ、エミール」

まずはそう告げて、いや、と苦い笑みを浮かべた。

「少なくとも、俺自身にとって大切なものは裏切ってはいない。大切な、――唯一のものだけは」

だがそう云いながらも、ミカドは痛みをはらんだ眼差しをシュナール老太刀が去った方向に向けるのだ。
シーナも戻らないだろう。聞こえるか聞こえないかの声音で呟かれ、エミールはたまらない気持になった。

(わかっているのに!)

それなのにどうして、他国の民に苛烈な命令を下すのか。
帝国への反感を呼び醒ますような命令を下し続けるのだ。

口を開こうと思った、だが、ミカドが再び瞑目し、溜息をついた様子を見て唇を閉じてしまった。
ぎゅっと拳を固める。

「僕は、ここにいます」

心から意外そうに、ミカドはエミールを見る。その表情を見て、エミールはやはり切なくなった。
せめてシーナ副官、戻ってきてください。詳細は分からないまでも、ミカド将軍には何か御事情がおありなんです。
心の中で呟いていると、表情を厳しくしたミカドがエミールの腕を掴んだ。

「いや、出ていけ」
「行きません」
「行くんだ!」

ぎりぎりと握りしめられる痛みに抗しながら、きっとエミールは涙が浮かぶ瞳をミカドに据えた。

「それだけの事情があると云うことなんですねっ」

するとびくりとミカドの様子が変わった。顔がこわばり、信じられないことだが、その瞳には恐怖すら浮かんでいる。何に対する恐怖なのか、それがエミールにはわからない。だが、腕を解放され、反射的にさすっていた。ミカドの瞳に影が走る。 だが冷やかな表情でミカドは告げた。

「ならば俺の侍童にでもなってもらおう。職位を下げる。いいな」
「……はい」

ありがとうございます、と告げると、うるさげに手を振られた。

その仕草に傷つきながら、だがエミールは見たのだ。腕を組み、厳しい表情で外に視線を向けたミカドの横顔を。それはあまりにも孤独に満ちた、かなしい顔だった。

(そばに、います)

心の中で呟いて、エミールは尊敬する将軍に一礼して部屋を出ていった。

――そして出ていった3人が戻ることは、ついになかった。
ミカドは追求することなく淡々と次の閣僚を定めた。

侍童としてエミールはミカドのまわりの世話をしながら、時折、暗く沈む灰色の瞳を見届けていた。

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