結界

    一度閉じられた部屋は真っ暗闇で不安を誘う。

    だがすぐに魔法使いは、灯りをともしたものだから、じっくりと中身を観察することが出来た。懐かしい形式の、ぴかぴかとした建物。これが500年以上昔の内装だとは誰も思うまい。

    内側から外を眺めれば、するすると蔦が張っていくさまが見えた。そうか、と納得する。蔦は侵入者を阻む役割をも持っていたのだ。もちろん毒を含んでいるとかそういう意味ではなく、入り口がどこにもないと思わせる役目を背負った植物だったのだ。

    エターナルを抱きながらその様を眺めていると、魔法使いの男は上着を脱ぎ、いたって気楽な格好となった。壁に服をかけ、湯を沸かし始める。

    魔法使いのくせに、ずいぶん地に足がついたやつだ。そんなことを思ったが、以前からそうだったことを思い出す。彼はこの世で唯一の魔法使いであるのに、その魔法をなかなか使いたがらない。おぼろにではあるがその理由を察している魔女は、勝手に食器棚からティーカップを取り出した。腕から飛び降りていたエターナルは、くるくるとあたりをさまよっている。

    「茶菓子はあるのか?」
    「相変わらず意地汚いな、ネトル。しかしこの部屋は300年は完全に空けていたんだぜ?」
    「ぞっとしない話だな。って、その茶葉は」
    「安心しろ。これは俺がいつも持ち歩いているやつだ」

    こぽこぽと温かな音を立てて、茶がカップに注がれる。そんな場面を見て、心が和んでいくさまを魔女は自覚した。知る者は少ないだろうが、この魔法使いは紅茶を淹れる名人なのだ。久しぶりにその味を堪能出来そうで満足である。

    だが、茶の味を呑気に楽しんでいられる状況ではない。香りを楽しみ、そしてカップを傾ける男は、たしかに魔女の言葉を聞いていた。そして同時に、自らが確認してきた、ルナの辺境の様子を伝えてきた。それを聞けば、呑気に構えていられないと思える。

    けれど。

    「時間が足りないと思わないか、ネトル」

    男が切り出したのはそんな言葉だった。スティグマの和の一環となるか、と云う質問への答えよりも先に告げた言葉がそれだったのだ。

    魔女は沈黙し、慎重に話を切り出した。

    「……それほど、魔法の消滅具合は早いのか」
    「早いね。もう空気が消えている地域すらある。な、エターナル」
    「はい。あの地域に人はもはや生存していくことはできません。幸いにも魔法使いが精神結界を張ってくださいましたが」
    「精神結界。ああ、つまり、ここから先には行く気が失せる、という領域にしてきたのか」
    「しないよりまし、という程度のものでしかないがな。だがとにかく時間が足りない」

    魔女は沈黙し、だが、と、強い口調で切り返す。

    「再び、同じ魔法をかけることは出来ぬぞ。それほどの魔力の持ち主もおらぬし、竜族にはその理由がない」
    「おまえの説得でもか?」
    「……おまえが用いる魔法と、竜族が用いる魔法は違うのだ。竜族のそれは、融通が利かない」
    「つまり、ガイア回復と連動している、という事実は動かせないと云うことか」
    「おまえの力は精霊、つまり、生命体によってもたらされるものだ。ところが竜族の魔法は、時空に刻みつける契約のようなものでな」
    「時空には意思がない。純粋な理だからこそ、動かすことが出来ない、という理屈か」
    「そうだ。でもこれは、以前にも話したことだろう?」
    「ああ、――覚えている」

    ふと、魔女はその口調にえも知れぬ不安を覚えた。
    傾けていたティーカップから顔をあげて、魔法使いをまじまじと見つめる。

    精悍な男の顔だ。意思が強く、そのくせ柔軟な思考の持ち主であることを覚えている。だが、同時に、やると決めたらどんなことでもやり遂げる男でもある。だから危険な男だ、と、感じていたことをも思い出した。目的のためならば手段を選ばないのだ。

    そこまで考えた時、は、と、魔法をとどめるもうひとつの方法に気がついた。そして、魔法使いも気づかれたことに気付いた。

    「沈薬・活動」

    短く呪文を唱える。「あ」、と、魔女は呟いていた。くらり、と、急激な眠気が頭に襲いかかってくる。

    これがもう一つの方法だ。

    ガイアの回復と連動している「短針」、その動きを遅らせることが、魔法消滅を遅らせる方法ともなる。そうと気づけば、おとなしく眠りに意識を委ねるべきだった。眠っている間に、アルセイドたちが動きスティグマの和を成すだろう。

    だが。

    かしゃーん、と、ティーカップを振り払っていた。
    眠りに入りながらも、魔女は怒りに燃えた瞳で魔法使いを睨む。

    「わ、たしを……っ」

    続けようとした言葉は、魔女自身にもわからない。ただ長針であるアルセイドの顔が脳裏に浮かんだ。おそらく、いまこの瞬間もスティグマの和を成すために頑張っている青年。守ってやらねば、と思わざるを得ない、もろさをどこかに抱えている孤独な若者だ。

    (運命の、相手――?)

    静かに魔女を見下ろす魔法使いの顔つきに、先程告げられた言葉を思い出していた。
    馬鹿な、と、思考のなかで呟いている。運命などと云うものを信じる自分ではいたくなかった。

    もし運命があるというのであれば、魔女は呪わずにはいられないだろう。

    竜族の夫に嫁いだ、その幸福な運命よりも、同族である人間たちに迫害され続けた運命を呪ってしまう。
    だから魔女は運命を信じない。自分自身でなすべきことを成し遂げる。いまの彼女にとって、それは眠ることではない。

    眠りたく、ないのだ。

    「――それでも、おまえが眠りに就くことが、いまは確実な方法でもあるのさ」

    魔法使いが低く呟いて、倒れ伏した魔女を抱える。召使ロボットエターナルは、ぐるぐると回っているだけだ。
    エターナル、と、呼びかけて、魔法使いは、その召使ロボットに命令を下した。

    「おまえのマスターは再び眠りに就いた。その眠り、守ることは出来るな。結界を張り、誰も侵入できないようにするが」
    「もちろんです。ですが」
    「ですが?」
    「魔法使い。マスターは否定の意思を漂わせていたように思うのですが」

    ふ、と、魔法使いは笑みを浮かべる。なんとも云えぬ、複雑な笑みだった。
    この召使ロボットは、魔女の忠実なしもべだが、状況を判断する能力はさすがに人間並みではない。魔法使いは魔女の友人とインプットされているため、魔法使いが魔女を害を及ぼす、とは考えないのだ。これがもし人間ならば、彼女の意思を無視したこの行為に一言云っていたに違いない。

    (たとえば、――長針、ならば)

    人間であり、魔女を変えた生き物ならば、あるいは魔法使いを責めていたかもしれない。
    そうと思えば、ふと興味もわく。

    あえて非難を受けたいわけではないが、この状態の魔女を見て長針は具体的にどういう行動に出るのか。

    「それによっては、次に出るべき行動も変える必要があるな」

    魔女を抱き上げ、この建造物にもある装置に向かいながら、もう一度、エターナル、と呼びかける。
    ぴょんぴょんとびはねながら、ロボットは、はい、と答えた。

    「長針の位置はわかるか?」
    「マスターと同じ波動をもった人間のことですね。可能です」
    「ならばその位置を教えろ。少々伝えたいことがある」

    不敵に笑って、魔法使いは告げられた位置に目を細めた。
    「現姿・半明」と呟く。これで長針との通信が可能のはずだった。

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