3-(2)
幼い子供の声だ。少なくともこの学園に通うような年齢の声ではない。
乃梨子は海斗と顔を見合わせた。お互いの表情で、いまの声が聞き間違いではないと確信した。じゃあ、どこから聞こえてきた、と考えながら首を動かすと、海斗が「いてっ」と短く叫んだ。
あわてて海斗を見たら、その足元に、五~六歳くらいの男の子供が立っていた。
ただ、普通の子供ではない。古典の教科書に登場する水干を着ており、なにより、その頭には獣の耳がはえていた。獣というか、狐の耳だろう。よく似た耳をいつも見ている。
ましろさまの関係者だ、と乃梨子は察した。同じことを考えたのだろう海斗も驚いた様子を見せたが、すぐに「こら」と子供を叱り飛ばす。
「いきなり人の足を蹴るとは何事だ?」
(え、そんなことをしたのこの子)
驚きながら子供の目線に合わせてしゃがみ込むと、子供はムッと海斗を睨んでいる。
「うるさいうるさい! おまえたち、ましろさまに茶道を教わっている子供だろう。ましろさまの匂いがおまえたちから漂ってる。言い逃れをしようとしてもムダだぞ」
やっぱり、その名前が出てきたか。それにしても子供って。
自分たちより遥かに年下らしき子供に、子供と呼びかけられるとは。微妙な気持ちで乃梨子と海斗は視線を交わした。ため息をついて、海斗もしゃがみ込む。
「その通りだけど、おまえは? どこからきた。おれたちになんのようだ?」
「おまえじゃない。あかつきだ。おまえたち、ましろさまをいじめるな!」
「ましろさまをいじめる?」
思いがけない言葉に、思わず乃梨子は言葉をはさんでいた。あかつきと名乗った子供が乃梨子を見る。ましろさまとは違う、黒々とした瞳だ。ちょっと見とれながら、乃梨子はそれでも率直に、思ったことを口にする。
「ましろさまをいじめてる人なんて、いないと思うけれど」
「つか、どうやったらあの人をいじめられるんだよ」
思わず、と言った様子で海斗が口をはさむと、かっとした様子の子供が蹴りを放つ。「北原くん!」と乃梨子が思わず叫んだところ、さすが剣道部員というべきか、海斗は素早く動いて、右腕で子供の蹴りをブロックした。
「二度も喰らうわけないだろ」
子供は「むー」とうなり始めた。乃梨子は手を伸ばして、その頬をはさむ。子供の顔を自分に向けさせて、言い聞かせる。
「あのね、そういうふうに人を蹴っ飛ばすのはよくないことなのよ。怪我をさせたら一大事だし、なにより格好悪い。かんしゃくを起こして攻撃するなんて、最低なんだから」
乃梨子の言葉のどの部分が琴線に触れたのか、子供はしゅんと眉を下げた。
もちもちした頬の感触を惜しみながら手を離せば、子供は素直に「すまぬ」と謝る。苦笑した海斗が、くしゃくしゃと子供の頭を撫でた。「それで」とやさしい口調で訊ねる。
「おれたちがましろさまをいじめるって?」
もはや二人とも、なぜここにこんな子供がいるのか、追求することは諦めた。
そもそも、ましろさまのような生き物が、日本の地方にあるこの学園に通っているのだ。世界は広い。だからましろさまのような生き物が他にいても不思議ではないよなあ、という共通認識を抱いて、二人は子供に向かい合っていた。
ちょっとばかり元気をなくした様子の子どもが、それでもかたくなな様子で告げる。
「そうだ。おまえたちはましろさまを仲間外れにするのだろう」
「え?」
二人が戸惑って顔を見合わせれば、きっと子供が睨んでくる。
「ましろさまから、あのかたから茶道を教わってるくせに。その茶会にましろさまを招かないとはどういうわけだ!」
「あかつき!」
子供の大きな声にかぶさるように、女性の声が子供の名前を呼んだ。
ふたたび声のした方向を振り返ると、いつのまにか、小袖姿の女性があらわれていた。「ははうえ」と子供がつぶやく。厳しい表情を浮かべた美女は、両手を差し伸べて「こちらにおいでなさい」と子供を招く。むーと唇を結んだ子供は、しぶしぶと言った様子で乃梨子と海斗から離れる。近寄ってきた子供を抱き上げ、美女は二人に頭を下げた。
「このたびはこの子が迷惑をかけました。どうぞお許しください」
「あの、あなたは」
「ましろさまの眷属のこはると申します。この子が叫んでいた内容はどうぞお忘れください。子供の言うことですから」
「本当に?」
乃梨子が言うよりも早く、海斗が鋭く言い放った。
こはるはゆっくりと海斗を見つめ、静かな調子で告げる。
「少なくとも、ましろさまはみなさまに茶道を教えることを楽しんでおいでです。わたくしの夫も、みなさまのために和菓子を作ることを喜んでおります」
「あなたは?」
今度は乃梨子が疑問を口にした。こはるの遠回しな物言いに、感じ取れるものがあったからだ。だが乃梨子の問いかけには、こはるはなにも答えず黙って頭を下げた。
そのまま、その姿がかすんでいく。
さあっと風が吹いて、思わず髪をおさえた間に、親子は消えていた。