はるかな地

    さくさくと草地を踏む。頬を撫で、髪を乱していく風が心地よい。
    天空から降り注ぐ太陽はまばゆい光を投げかけている。

    すうっと深く息を吸って、吐いた。
    胸一杯に新鮮な空気が入ってくる。頭の中まではっきりと明快になるようだ。

    豊かな笑い声が響く。

    「楽しそうだな、ネトル」
    「もちろんだよ、長。あなたがいると、世界は安心できるものだと無条件に信じられるんだ」

    白い髪を揺らしながら、ネトルは背後を振り返った。
    そこにいるのは竜である。きらきらと太陽の光を反射させる、うろこがまばゆい。目を細めながら、裸足のまま草地を走る。腕を伸ばしてその首元に抱きついた。すべすべとした肌だ。この腕におさまりきらない。

    「どうする、ネトル。空を飛んでみるか?」

    少しだけ考えて、ネトルは首を振った。その代わり、と切り出す。
    なんだ、といぶかしげにうつくしい竜の長が首をかしげた。

    「空を飛んで、長。わたしはあなたが空を飛ぶさまを見るのが大好き」

    すると若き竜の長はくつくつと笑う。共に空を飛ばなくともよいのか。
    そう云いながら、翼を広げる。そして風を捉え、飛翔する。

    ああ、と遥か遠く天空に飛び立った竜の長をネトルは眺める。傍にいられるだけでよかった。けれどいちばんはやはり、楽しそうに飛翔している姿を見ることがいちばんだった。この瞬間を体験するだけで、これまでの不幸がすべて許せる気になる。

    「だからいまは、大人しく帰ってくれないか」

    そろりそろりと近寄ってきた人間たちに、ネトルと呼ばれる魔女は言葉をかけた。
    ぎくりとこわばった気配がする。仕方なさそうに笑い、その方向に視線を向ける。風とは違う方向に揺れる草があるから、すぐに人が潜んでいるとわかる。

    「義兄上に伝えてくれ。もうアルテミシアは2度とお目にかかりませんと。ここでひとり静かに暮らしていくと」
    「――それでも大統領閣下は、あなたの死をお望みなのです。ご令嬢」

    その言葉が響いた途端、風の向きが変わった。急激に降下した竜が、くわ、と牙が並ぶ口を開いて見せたのだ。ひっと男たちは悲鳴をあげて腰を抜かす。慌ててネトルは駆け寄り、恐れた様子もなくその竜の首筋に抱きついた。

    「やめてくれ、エターナル!」
    「我が朋。我の矜持は、朋の危機を見過ごすほど低くはない」
    「それでもだ。いまはわたしの顔をたてて、許してやってくれないか」
    「我が朋……」

    竜は溜息をついたようだった。
    それでも開いた口からふうっと冷たい息を吐き出していく。草むらがきらきらと氷をまとう。

    男たちは転げ回るように逃げていった。その服のあちらこちらには氷の粒がこびりついている。場所によっては凍傷になっているかもしれない。ネトルが竜の長エターナルを見下ろすと、じろりとひとにらみで見つめられた。首をすくめてしまう。

    「どうして命を狙ったものを赦すのだ、ネトル」
    「え?」
    「我から見れば、そのひ弱な肉体で信じられないほどの寛大さだぞ。我が守らなければあっさり死んでしまうくせに」
    「たぶん」

    考えるまでもなく、満面の笑顔でネトルは告げた。

    「あなたがいるからだ、エターナル。わたしよりもわたしのことに怒り、わたしのよりもわたしのことを嘆いてくれる。あなたは怒るかもしれないが、だからこそわたしの心は満たされる。そしてね、満たされた心があると、もうどうでもよくなるんだ」

    だって、と輝く笑顔でネトルは続ける。

    「わたしはどうせ、いつか死ぬ。ならばその間、憎しみや恨みに身を焦がすより、あなたの傍にいられる幸福に身を浸していたい」
    「――善き魔女。我が妻よ」

    その声は重々しく、ネトルの背後から響いた。
    ぎくりと身体を揺らした魔女は、恐る恐る背後を振り返る。同じ竜がそこにいた。

    ただしネトルが抱きついている竜よりもずっと老いている。それでも変わらぬ深い瞳で慈しみを込めてネトルを、魔女を見つめていた。魔女は悲しく微笑む。長くなびいていた髪は首筋までの長さとなり、衣服もガイアのものからセレネのものになっている。

    「やはりこれは夢だったんだな、我が夫」
    「そうだ、夢だ。魔法使いが強制的に眠らせた中にある、仮初の夢」
    「あなたはもういない」
    「そうだ。我はもう死んだ。ここにあるのは、おまえの記憶に残る我に関する記憶。すなわち我もおまえ自身だ」

    若き竜はすでに姿を消している。鮮やかな草原も同様に。ぽたり、と魔女の白い頬を涙が落ちた。
    なあ、と、魔女は老いた夫に告げる。

    「どうしてわたしは頑張らなくてはならないんだろう」
    「魔女」
    「セレネのためを考えていた。ガイアのためを考えていた。それなのに意思を無視され眠らされた。そこまで邪魔者扱いされて、なぜ、頑張らなければならない? あなたのいない世界を、どうしてわたしは守らなければならないんだ?」
    「長針が存在する世界ぞ、魔女」

    アルセイド、と、魔女の唇が動く。白い歯が淡紅色の唇をかんだ。

    「我が夫。真実は与えられぬと知っていて、あえて問う」
    「なんだね、善き魔女」
    「あなたは、わたしが寄り添う相手として長針の定めをアルセイドに負わせたのか? これまでに生まれた長針たちにも?」

    答えはない。穏やかな瞳は、ただ魔女を映しているのみだ。
    わかっている。これは魔女の記憶の残骸。

    すでに夫たる竜はこの世を去っている。
    魂というものがあったとしても、むざむざと魔女の元には訪れないだろう。

    なぜなら魔女がそう願ったからだ。
    この世から解き放たれた竜よ、どこまでも自由にかけてゆけ、と。

    答えはない。けれど心が示す答えはある。
    そして夫たる竜に云われたくないがために、この老いた竜はそれを決して云わない。

    それでよかった。それこそが、――よかった。

    「戻るのだな、我が妻」
    「ああ。なんのために頑張っているのか、それはわからないけれど。わたしがセレネの魔法を動かしてしまうということは知っているけど」

    それでも、ひとりの人間として、魔女はセレネを見届けたかった。
    成すべきことを成し遂げたかった。

    魔法使いは勘違いしている。
    時計は止まらないものだ。魔女が眠っている間にも時計は動き続けていた。

    セレネの魔法が消滅の方向に向かったのは、魔法を進める時計が完成したからだ。
    すなわち長針と短針が出会ったから。

    魔女とアルセイドが、――出会ってしまったから。

    動き出した魔法は止まらない。
    それが理に働き掛ける竜族の魔法であり、おそろしさでもある。精霊もその理の中にあるのだ。

    だからこそ。

    「わたしを眠らせることなど、無意味なのだよ。スカール・タルバドール」

    呟いた声はすでに現実のものとなっている。
    気密容器の中から、塔の内部が透かして見えた。指に力を込める。動いた。

    内部からの操作ボタンを動かすと、ゆっくりと蓋が持ち上がる。新鮮な空気が流れ込んできた。冷凍処理はされていない。ただ精霊の力をもって眠らせただけなのだろう。それを魔女にかけられていた理の力が打ち消したと云うわけだ。

    (あるいは、あのまま夢の世界にたゆたうことも出来たのかもしれないが)

    魔女自身は、すでに己の望みを自覚している。
    だからこそ、眠りの世界に居続けることは出来なかったのだ。

    「マスター!」

    いきいきとした若い女の声が魔女を呼ぶ。ぴょん、と飛び込んできた丸い球体に微笑みかける。

    「エターナル。おまえに命令を下す」
    「はいっ、マスター」
    「この宇宙船の手入れをせよ。いつでも飛び立つことが出来るように。そしてわたしの帰りを待て」
    「はいっ」

    人工的な音声なのに、心の底から嬉しそうにエターナルは応える。複雑に微笑んだ。
    そうかと思えば、エターナルは不可思議な言葉を続ける。

    「嬉しそうですね、マスター」
    「なに?」
    「肯定の気配が漂っています。前進の気配が漂っています。マスターがそうであることは、わたしにとっても喜びです」
    (ああ)

    そういえば、自分は500年の眠りについていたのだった。
    そしてこの機械は「学習」の機能を備えていたのだった。

    眠っている間も自分の眠りを見守り続けてくれた機械、そして、50年の昔に起きた危機に共に行動した供だった。

    「おまえを眠らせたりはしない。任せるよ、エターナル」
    「お任せくださいませ、マスター」

    そして魔女はしなやかに立ち上がり、塔の外に滑り出た。
    するすると蔦が塔を覆っていく。魔女は二度と振り返らなかった。

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