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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

歌姫

ざわざわと抑えきれないざわめきが、「花の館」からこぼれていた。充分な広さをもつ飲み屋なのだが、今日ばかりは特別である。なにせ、あの歌姫マリアンデールが訪れ、歌うと云うのだから。

マリアンデールと云えば、このセレネにおいて知る者のいない歌姫なのだ。

あの帝国兵たちですら、期待に胸を躍らせた様子で椅子に腰かけているさまが見える。ひとりではない、何人もだ。舞台裏からその様子を眺め、レジスタンスの長カイナはほうと感嘆のため息をついた。

「さすがですね、シュナール老。このような方法はわたくしには思いつきませんでした」
「亀の甲より年の功というもの。ましてや、カイナさまには帝国軍からの追跡から守っていただいたご恩もございますからな」
「いいえ。わたくしは剣聖シュナール老ほどの御方をむざむざと死に追い込みたくなかっただけのことです」

さらり、と衣擦れの音が響いた。振り向くと、話題の歌姫が微笑んで立っている。
その手を取るのは吟遊詩人タルバドールである。丁重な振る舞いで歌姫の手をとる様は、まるで従者のようだった。背後に店の者がタルバドールの竪琴をもっている。わあ、とカイナは顔を輝かせた。シュナール老も満足げに微笑んでいる。

「歌姫マリアンデールと、吟遊詩人タルバドールの共演を目の当たりにすることが出来るなんて」
「これはあなたさまのお力ですぞ、カイナさま」
「え?」
「ええ、その通りです。わたくしたち音楽の歌い手も、帝国によってずいぶんな制限を加えられました。その、ささやかなお礼」

紅に銀粉を散らした唇から、かぐわしい言葉が紡がれる。いまだ幼さを残した少女はその様子に見惚れ、だが、すぐにいつもの凛とした表情を取り戻した。いいえ、と落ち着きをもって首を振る。

「お礼を云うべきはこちらでございましょう。本来、あなた方は何者にも縛られることなく歌う方々だとうかがっております。それをあえて、わたくしどものためにガイア帰還を促す歌を歌っていただけるのですから」
「あなた方の為ではないよ、長どの。わたしたちのためだ。滅びゆくセレネから速やかに立ち去るため、それを促すための行為なのだから」
「しかし驚きでございますな、タルバドールどの。あなたの家では代々、ガイアの魔女に関する伝承があったと云うことですが」

ふ、と端整な男は、余裕ある微笑みを浮かべる。色とりどりの布をまとい、吟遊詩人らしいたたずまいではあるが、その眼差しだけは不思議な深みをもっていた。

まるでお父さまのよう。カイナはそう感じたのだが、不思議なことにそう感じたのはカイナだけではない。シュナール老もまた、不思議な違和感をこの若者に抱いていた。外見に似合わぬ深みをもっているような、そんな印象を抱いていたのである。

「さてね。わたしも不思議なのですよ。ガイアの魔女などとは、……あの帝国の主張と妙に一致する。あるいは先祖は帝国とつながりがあったのやもしれません」
「一度、あなたの生家に訪れてみたいものですな。アルセイドなどは嬉々として調べ回るかもしれません」
「なにもない、ただの塔ですよ。それにしても、アルセイド、とは?」
「帝国の主張する魔女、の片われですよ。ガイアの魔女に何事かがあったと主張し、いまはアジトを離れておりますが、……そうそう、長針と云う役目を負っていると申しておりましたな。そしてガイアの魔女が短針の役目を追っているのだと」
「面白い話ですね。長針、と、短針。まるで運命の一対のような言葉ですね」
「ええ。そうだとしたら、素敵なお話かもしれないわね」

歌姫マリアンデールが言葉をはさみ、そしてつい、と、タルバドールの腕をひいた。では、と、彼は軽く頷いて台に進み始める。カイナは舞台袖から2人を見送った。かすかな会話が聞こえてくる。いけない、と思いつつ、その会話の中身を聞いてしまった。

「あなたの家に、そんな伝承があったなんて知らなかったわ。あなた、生まれも育ちもない、放浪者だと云っていたじゃないの」
「少なくとも、二度と向かうつもりがない場所だったのでね。――あと、少なくとも100年の間は」
「死んでるでしょう、さすがにその頃には。それなのに、いまになってその伝承を歌うのね。油断できないひとだこと」
「油断できない?」
「なにを隠し持っているのか、長い付き合いのわたしでも把握しきれないということよ」

それだけを云いおいて、歌姫は舞台の中央に進み出る。わっと歓声が上がった。吟遊詩人タルバドールは歌姫から少し離れた位置に腰掛け、竪琴をポロロン、と奏でる。舞台袖に視線を送り、緊張した面持ちで眺める老人と娘に微笑みを浮かべる。そして歌姫と視線を合わせ、さらに指を動かす。さらさらとした水の流れをイメージした曲だ。ふう、と、カイナは溜息をついて、そっと外に出た。シュナール老がついてくる。

「どうなされたのかな、カイナどの。あれほど楽しみにされていたではないか」
「はい、すごく楽しみでした。でも……」

複雑な想いをもう一度息に変えて、深々と吐き出す。

「歌姫マリアンデール。吟遊詩人タルバドール。2人の演奏を聞くことは、両親を思い出させます」
「……お辛いですかな。思い出して?」
「いいえ、嬉しいのです。嬉しいからこそ、もう聞くことが出来ない両親に申し訳がなくて、しかも今のわたしはレジスタンスの長なのに」

ポロリ、とこぼれた涙をぬぐって、聞こえてくる音の洪水に耳をすませた。素晴らしい共演だ。今は亡き、この地方の領主であった父や母でもこれほどの贅沢、覚えがあったかどうか。

それを今、娘である自分が聞いている。ただひとり生き残った、苦しみも死も与えられなかった娘が。

トン、と温かな感触の手が肩に触れた。かさかさに乾いて、それでも温かな手はシュナール老のものだ。泣き出したいほどの感触にカイナはうつむく。トン、トン、と手がリズムをもって叩いてきた。

「カイナどののご両親は、娘が幸せになることを喜ばないお方ですかな?」
「いいえ」
「カイナどののご両親は、娘が笑っていることをお怒りになるお方ですかな?」
「いいえ」
「ならば中に戻って、歌姫たちの共演を聞くことといたしましょう。遠慮する筋合いはどこにもございませんぞ。これはレジスタンスの作戦。その作戦現場に長が立ちあわないなどと云うことがあってよいものでしょうか」

くすり、と、カイナは笑って、シュナール老を見上げた。
温かな好々爺の笑みが浮かんでいる。その背後に青き月があった。

――この目に映る青き月、それが美しいのはきっと命があるから。

歌姫の言葉が切れ切れに耳に届く。
ガイアがうつくしいのはきっと命があるから。あの若者の言葉を信じればそう解釈できる。

(お父さま、お母さま)

青き月を見ながら、カイナはささやいていた。

(もしかしてお2人は、すでにガイアにいらっしゃるのではないですか?)

人間ではなくとも、あるいは植物になって。地を走る獣になって。空を飛ぶ鳥となって。

(ならばわたしも、ガイアに参ります。お2人にもう一度、出会うために)

目を細めてカイナは青き月ガイアを見つめ、そしてシュナール老にとられた手に引かれるまま歩きだした。

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