二律背反

    「魔女……!」

    呼びかけてアルセイドは立ち上がろうとした。
    ところが慣れない態勢で腰掛けていたものだから、容易にそれは叶わない。

    ふふ、と軽やかな笑声が響く。
    その声音通りに動き、そして手を差し伸べてきた魔女の腕を逆につかみ、抱きしめていた。

    「おい、アルセイド?」

    わずかに慌てたような、それでいて芯からのいぶかしさに満ちた声だった。
    それでもアルセイドの抱擁に抗おうとはしない。

    やわらかな香りが鼻腔に届く。華奢な身体は腕の中にすっぽり収まる。魔女を囲い込むように抱きしめ続ける。脳裏によぎるのは、ぐったりと抱えられていた魔女の姿。見ず知らずの男に抱えられていた彼女の姿だ。あれからどうなった、と案じて案じて、この時を迎えた。

    「……。無事でよかった」

    それだけを告げて腕を解くと、不可思議な視線を魔女はアルセイドに据えていた。
    哀しみに似ている。だが違っている。

    温かさがあるようで、痛みもはらんでいる。切ながっているようで、喜びも混じっている。
    以前に見せることがなかった眼差しだ。けれどうつくしい、金と緑のまだらの瞳から妙に目が離せなかった。

    魔女はスッと目を伏せ、フィリニアに向き直る。

    「久しぶりだな、長どの」
    「あなたは全く変わってらっしゃらない。人間であるのに、我らより時のはざまにおかれているのだな」
    「感傷に浸る必要はないぞ。いついつまでも若くあることは、女子にとっては幸いのひとつであるからな」
    「だが動き出した時は止まらない」
    「ああ。わたしも他の人間と同じように齢を重ねるだろう、――ガイアの地で」

    そしてエルフの長と魔女の視線が同時にアルセイドに向かう。
    わずかにたじろいだ彼は、ようやくイストールのことを思い出した。表情を引き締めて、確証は出来ない、と繰り返した。エルフの長は苦笑を浮かべた。

    「今代の長針どのは、正直な方ですね。魔女どの」
    「融通が利かないというのだと思うぞ、フィレラ」
    「ふふ。あなたとは対照的、と云うわけですか」

    しゅ、と、まとっている服の裾を払い、エルフの長はアルセイドに向き直った。それでも、と続ける。

    「スティグマの和を成すため、その一環となる条件として、我が甥との再会を願います。長針どの」
    「――向こうが逢いたがるか、それがわからなくとも?」
    「手厳しいですね。さよう、これはわたしのわがままです。ですが、人間の血が入った彼には、おそらくセレネの地では生きていけない」

    そうだろうな、と魔女も口をはさむ。こういう時にそうであるように、魔女は決してアルセイドの側には立たない。だから助かる局面もあるし、悩まされる局面もある。アルセイド、といつもの涼やかな声で魔女は告げた。

    「おまえは、イストールをどうしたい?」
    「!」
    「おそらくは帝国宰相として侵略を提案しただろう男だ。おまえの家族を奪った男でもある。その彼に、血族との再会を与えるのは気が進まないか」
    「いま、ここで云うべき話題ではないと思うぞ、魔女」
    「だが、重要なことでもある」
    「ではもっと重要なことは覚えていないようだな、魔女。俺は云ったはずだ、復讐などどうでもよいと」

    あの時に感じた、馬鹿馬鹿しさをアルセイドは覚えている。同時に、喪失を訴える胸の痛みを覚えている。
    両方が共に在る。だからこそ、余計にイストールに手厳しいのかもしれない。確かにそう思った。
    ところが魔女は、アルセイドの言葉を聞くなり、満面の笑みを浮かべて告げたのだ。

    「ならば、逢わせてやろうではないか。あのイストールに、いやがらせとして」
    「……。は?」

    想定外の言葉を聞いた。くるくるとした、悪戯っぽい眼差しで魔女は言葉を続ける。

    「だからイストールはもうエルフの一族と出会うつもりがないのだろう。ところが我らは逢わせてやろうと云うのだ。これはやつにとって立派ないやがらせになると思うが」
    「魔女どの、それは」
    「黙ってくれないか、長どの。身内としては複雑だろうが、我らはあやつにとんでもない目に逢わされているのだ」

    なあ? と相槌を求めてくる魔女に、ついにアルセイドは吹き出していた。
    そればかりではない、腹を抱えて笑っていた。

    なんというか、気負っていたものすべてが、何もかも台無しになった気分がする。
    魔女にかかっては、このルナの命運も形無しだ。

    (どうして)

    おまえのような存在でいられるんだろうな、とアルセイドは魔女に向けて不思議な感触を覚える。
    人から疎外されて、裏切られて、最愛の夫を亡くし、親愛を覚えている一族とは別れなければならないことが決定済みで。

    それなのに魔女は恨みに囚われない。憎しみに突き動かされない。
    アルセイドの中には、後退する気持ちと前進する気持ちが常にせめぎ合っていると云うのに。

    だから、アルセイドにとって魔女は、唯一の存在なのだ。
    他にも理由はあれど、最終的に自分らしさを失わない魔女を大切に想える。

    ――いまはまだ、そうとしか表現できないけれど。

    「いやがらせか」
    「そうだ。不満か?」
    「いや、わるくないな。それならば、長どのの申し出も受けようという気分になる」
    「何やら、複雑な気分になりますが」

    最終的にはエルフの長も笑いだしていた。
    彼も理解しているのだ、甥とただ会いたいという願いが難しいものであることを。

    それでも何かしら、明るい要素を感じ取ったに違いない。
    魔女のおかげだな、とアルセイドは呟いていた。

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