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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

精霊

かたん、と、吟遊詩人の手から盃が滑り落ちた。酔いが入った男が、お、と隣で声を漏らす。慌てて盃を取り上げたが、いち早く、その男は吟遊詩人の肩をたたいた。手加減なしにバンバンとだ、正直にいえば痛い。

「色男さんもよぉ、酒には弱いんだな」
「そうですね。ちょっと席を外しましょうか」
「大丈夫ですかな、タルバドールどの」

少し離れた席に座る老人が気遣わしげに声をかけてくる。にこりと微笑んでその質問をやり過ごした。なめらかに人の間を縫って、飲み屋の外に出る。表情が一変した。幸い、辺りに人はいない。引き締めた表情のまま歩みを進め、街から外れた場所に立つ。

「それで、どういうことだ?」
(ドウモコウモナイワヨウ)

風の声がささやきとなって、タルバドールの耳に届いた。常人には風の唸りとしか聞こえない声である。

(マジョガオキタ)
(コトワリノチカラニマケテシマッタ)
(マジョハモウフネヲデテル)

「まいったな、それは」

ふう、とため息をついて、吟遊詩人は腕を組む。セレネにかけられた魔法の消滅を押しとどめる、と云う彼の第一の目的は阻害された。もう一度同じ手を使うことも出来るが、さすがに魔女も引っかかるまい。それどころか、彼に対して警戒心を働かせることも考えられる。ならばその上で、吟遊詩人であり魔法使いである彼に出来ることを考えるだけだ。組んだ腕をあげて、あごをつまむ。ふいにくすりと笑った。

(マホウツカイ?)
「いや。なんのために俺は頑張っているのかと云うことを思ったら、不思議に笑いがこぼれてな」
(ナンノタメナノ?)

その問いに吟遊詩人はしばらく沈黙していた。だがその唇には笑みを浮かべたままだ。
知っているか。囁くように告げる。

「生まれ故郷の一角に、おいしい店があったんだよ。ステーキとポテトフライが絶品でな、黒ビールと食べると最高だった。仕事帰りに同僚と食べるのさ。特に難しい取引を終えた後だと、このために生きている、と云えたね」
(すてーき? ぽてとふらい??)
「要はその為、ってことさ」

空を見上げれば、青き月が目に入る。吟遊詩人が見つめたのは、その周りにきらめく星々だ。彼はこういう時、わざとガイアを見ない。

かつて味わった感触を思い出すように、目を細めて遠い記憶を反芻する。もうあの店はどこにも存在しない。ステーキやポテトフライはこのセレネでも食べることが出来る。黒ビールもだ。けれど、同じ仕事を請け負う同僚は既に存在していないし、あの瞬間はもう二度と楽しめない。なぜなら彼と同じだけの経験を重ねた存在は他になく、彼自身もあの頃の自分とは大きく変わってしまっているからだ。

それでも、いまでも彼は唄を歌うことを愛しているし、共に酒を飲み交わすことも愛している。
彼が奮闘する理由など、所詮その程度のことなのだ。だから魔法使いは自らが負うべき責任から逃げない。この世で唯一の存在である彼には彼の、果たすべき役割がある。そしてその役割を果たした後に、心を許した仲間と共に酒を飲み交わしたい。それだけだ。

とはいえ。

「ネトルの奴は、それはもう烈火のごとく、俺を怒っていると思うがな」

なにせだまし討ちにしたのだ。
あの時代を覚えている唯一の存在として、彼女をこの上なく大切に想っている。
だが役割のために、彼女をだました。
あの存在は友を赦すことが出来る存在だ。それでも怒っていることは間違いないだろう。

「仕方ない、張り手のひとつは覚悟するか」
「誰の張り手を覚悟するの?」

涼やかな声が響いた。声の主は聞き間違えようがない存在だ。ゆったりと振り返ると歌姫が立っている。
優美な身体に、ゆったりとショールをかけている。流れる髪には銀粉を散らし、幻想的な雰囲気を漂わせている。そんな雰囲気を漂わせるほどの美貌に目を細めながら、吟遊詩人は、さて、と考えを進めた。

どこまで彼女がひとりごとを聞いていたのか分からない。だが、さすがに彼を追ってくる女の意図を理解していた。静かに見つめる。見つめ合っている内に、くしゅん、と彼女はくしゃみをした。まるきり無防備なありさまに苦笑する。近寄りながらマントをかぶせ、静かに指先で細い肩に触れた。吟遊詩人仕様の言葉に切り替える。

「帰りましょう、あなたに風邪をひかれては多くの男の恨みを買う」
「まるで言葉遣いが違うのね、タルバドール。ひとりでいる時と、わたくしたちといる時では」
「人間、誰しも取り繕う瞬間はあるものですよ」

蒼黒い髪を夜風に流して、吟遊詩人は振り返った。促しても歌姫は動かない。
意地になったような表情で彼を見つめている。

困ったな、と彼は正直に思った。彼女の美貌は感嘆する。だがそれだけだ。同じ仕事仲間として尊重しているのだが、それは伝わっていないようだ。だが今この時にそれを伝えたとしても、彼女は歓びはしないのだろう。長く生きているのだ、そのくらいはわかる。

ふわり、と歌姫の淡い光のような髪が、夜にたなびく。
ふと温もりが唇に触れた。思わず苦笑すると、角度を変えて軽く噛まれた。

「わたくし、あなたのことが大嫌いよ、タルバドール」

それきり告げて、歌姫は先に歩き始めた。振られることは出来たか。自分自身に呟いて、唇に指をあてる。
そして踵を返し、精霊のようなうつくしい女の後を歩き始めた。レジスタンス作戦成功を祝う宴はまだ続いている。

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