王冠

    その部屋に入るなり、だん、と、ミネルヴァは壁を拳で叩いた。部屋にいた人間の注意が一斉に彼女に向く。

    中央にいた兄が目を細めて、妹の名前を呼んだ。まわりにいた人間が、2人を交互に見つめる。やがて1人、2人、とその場から立ち去った。最終的にその部屋に残ったのは、兄妹の2人だけである。つかつかと兄の元に歩み寄り、彼女は街で得たチラシを机に叩きつけた。不本意ながらもレジスタンスの作戦に参加し、本日初めて得た情報である。

    「どういうことですか、このチラシは!」

    兄はそのチラシを取り上げ、「ああ」と納得の声を上げる。ちらりと妹を見つめて、

    「これがどうかしたのかい?」
    「どうかしたのではありません。これではまるで、あの子ひとりが罪を追う羽目になるではありませんか!」

    ――帝国皇帝アルテミシアは、王位継承権では3位に過ぎず。簒奪した身で王権を好き勝手に扱う痴れ者である。

    そのチラシにはこう書いている。加えて、覚えもないのにミネルヴァと兄ロクシアスの連名となっている。すでにこの情報は帝国にも届いているという。それではこの糾弾を目にしたあの妹は、どれほど心を痛めただろう。それを想うとミネルヴァはたまらない気持になった。椅子に腰かけていた兄はゆったりと手を組み合わせて微笑んだ。ミネルヴァ、とたしなめるように呼びかける。

    「本当にそう思うかい?」
    「え……」

    兄は微笑を崩さない。
    そういえば、父皇帝から追放の命を受けた時も兄は微笑んでいたのだとミネルヴァは思い出していた。

    「まずアルテミシアの身は保証されているよ。いかにわたしたちがえげつない言葉を並べ立てたとしても、いまとなっては王位継承権はあの子しか持っていない。また、議会も承認した。だからこそ、議会もあの子を守らざるを得ないだろう。もっとも、いま、あの子の立場の危うさは、あの苛烈な侵攻にある。だからこそ、わたしはこのような声明を出したのだがね」
    「どういう意味です?」

    立ち尽くしたまま、それでも兄から距離を保ったままミネルヴァは問いかけた。
    つまり、とますます落ち着いて兄は言葉を続ける。

    「あの子しか王位継承権を持つ者がいないとなれば、あの子自身を尊重せざるを得ないだろう。だが、皇室には血統を守るための傍系も用意されている。いまのあの子のふるまいを見れば、暴走していると判断した議会貴族があの子を暗殺し、傍系の誰かを皇帝位につけることもありうるわけだ。そこで、我々の主張が有効になるのだよ」
    「つまり、あの子を暗殺したところで、傍系を皇帝位につける理由にはならない、ということですか」
    「その通り。あくまでも皇帝位を継ぐべきは我々だからね。そして表現があくどくなったのは、」

    初めて兄は疲れたように溜息をついた。

    「まあ、レジスタンス組織に身を置いているから仕方ない、というところかな」
    「ですが、あまりにもきつい物言いだと思います。あの子は独りで奮闘しているのですよ?」

    せめてなにか、あの子の心の支えになるものがあればよいのですが、と続ければ、兄は苦笑して話題を変えた。

    「ミネルヴァ。それよりも報告してほしい。レジスタンスと共に魔法が消滅しつつある地域を見てきたのだろう?」

    その言葉で目の当たりにしてきた光景を思い出したミネルヴァはこくりと喉を鳴らしていた。
    強くまぶたをつむり、息を吐き出す。

    「――遠くからの光景ですが」
    「構わないよ」
    「もはや緑色の草原は消え果ていました。ところが詳細な調査をしようとしても、それ以上近づくことが出来ないのです。まるで、」
    「まるで、魔法にかけられたかのように?」
    「……情けない云い訳をどうぞお責めください。どういうわけか、行く気になれないのです。心を叱咤したとしても身体が動かない」
    「なるほど。――魔法使いが動いているかな、これは」
    「え?」

    兄の呟きが聞こえなくて、ミネルヴァはいぶかしく訊き返した。兄は首を振り、いたわりの眼差しでミネルヴァ、ともう一度妹の名を呼ぶ。

    「だがこれでよく理解できただろう。このセレネは死の世界に向かいつつあると」
    「このレジスタンスに加わった理由もわかりました。それを見越して、行動されていたのですね」

    他のメンバーに、最初にこのことを伝えた少女と青年が気になります、とミネルヴァは続けた。

    帝国の、それも皇族だからこそ、最初は距離を置かれたり、陰口をたたかれもした。それでも気にすることなく共に行動し、助け合っていくうちに大分レジスタンスのメンバーとは心を打ちとけ合うことが出来た。芯からの仲間だと思い、行動を共にすること、とは、最初に兄からも云われていたことである。抵抗はあったが、いまとなっては、悪くない気分だった。

    「それは、帝国議会が主張する魔女、そしてその連れとなる長針だ。いまはどうしているのやら」
    「兄上。率直にうかがいたく存じます」
    「うん?」
    「兄上はなによりもまず、人々をガイアへ移住させることが最優先だと仰った」
    「ああ、云ったね」
    「では、その後は?」

    兄の端麗な口元から微笑が初めて消える。その様子をしっかり見届けて、ミネルヴァは言葉を続けた。

    「兄上ご自身が、人類の王となられるおつもりですか」
    「……アルテミシアには、荷が重い仕事だと思っているよ。あの子は、優しく慈愛に満ちた子だから」
    「そうでしょうか。だからこそ、アルテミシアにふさわしいのではありませんか?」
    「ミネルヴァ、忘れているね」
    「え?」
    「あの子が今、帝国皇帝として何をしているのか。人々があの子に向けた感情の激しさを」

    そうと云われてはミネルヴァとしては口ごもるしかない。兄は微笑を取り戻して、眼差しを遠くに据えた。

    「それにしても父上は酷なまねをさせる。アルテミシアにも、イストールにも」
    「兄上はなぜ、イストールにそこまで心を配られるのです?」

    少しだけ苛立たしい想いでミネルヴァが訊ねてみると、爆弾のような言葉が返ってきた。

    「なぜならイストールは我らが兄上だからね。最初に王位継承権を放棄した皇子なのだよ、彼も」

    ミネルヴァは大きく目を見開いていた。沈黙したまま確認すれば、黙って肯定される。

    ある日、父皇帝が連れてきた若者、それが父皇帝の息子だった?
    表情をさほど動かさぬ男を思い出した。最愛の妹アルテミシアを利用しているだろう男だ。その男が、自分たちと血筋を同じとしているとは、すぐには信じられる事実ではない。

    だが、兄がこの時、この瞬間に、ミネルヴァに嘘をつく理由も、また、なかった。

    「……なぜ兄上はそこまで、隠された事情に詳しいのです」

    うめくように聞けば、兄はいつもの微笑を浮かべた。
    もはやミネルヴァにもわかっている。これは仮面なのだと。

    妹のような身内にも心を隠す時に浮かべる、兄お得意の仮面なのだと。
    ぞくり、と身が震えた。兄は本当に、

    (アルテミシアを助けるつもりでいるのだろうか……?)

    とてもそうとは思えない。本心がささやく呟きをミネルヴァは必死になって否定した。

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