割れた卵

――その瞬間は唐突に訪れたのだ。

異変に最初に気付いたのは、セレネの全土を回っていた魔法使いである。食事の途中であった彼は、唐突に顔色を変え、立ち上がり部屋を出て行った。まわりの者はいぶかしげに顔を見合わせていたものの、やがて同様に血相を変えた魔女もまた部屋を出るにあたって、何事かが起きたのだと推察した。

代表してアルセイドが立ちあがり追いかける。外に出てみると、2人は共に、厳しい表情で空を見上げていた。近づくアルセイドに気付いた魔女が、泣き出しそうな顔になる。アルセイドは眉を寄せた。

「どうしたんだ、いったい」
「いま、北西の街が消えたぜ。ひとつ」

さりげない口調だったので、ああそうか、と受け流しそうになっていたのだが、遅れてその言葉の意味に気付いた。男を見つめると、珍しく苦い表情を浮かべている。いたたまれない、そんな様子で魔女がうつむいていた。

「ガイアが回復した。だからセレネの魔法も急速に消滅の方向に向かったということだろう」
「さすがは竜族の魔法だぜ。俺ごときの力じゃ抑えきれないってな」

2人の会話は、アルセイドにはわからない領域の話である。だから慎重に、具体的な話を切り出した。

「何人、死んだ?」
「ざっと、500人」
「老若男女、構わず、だな。レジスタンスの皆に教えるとするか、アルセイド」
「皆、ここにいるさ。お嬢」

艶やかな声が響いて、夜目にも白い掌が魔女の頭を引き寄せた。豊満な胸に魔女を引き寄せた美女は、厳しい目で魔法使いを見つめる。魔女は抵抗もしないまま、ただ女の袖を握りしめた。その隣にいたシュナール老が、沈痛な眼差しで魔法使いに語りかける。

「セキルの街が消えましたかの」
「ああ。うまい酒と飯がある街だったな」
「一度滞在したきりでしたが、辺境であっても温かい心づかいの出来る人々が住まう街でございました」

瞑目し、祈りの言葉を唱える。カイナはきりりとした眼差しをまわりに向ける。

「こういう事態となれば、仕方ありません。皆さま、至急、それぞれの街に戻り、民衆を安全な地へ導きましょう」
「だが、どこへだ」

そんな声が上がると、カイナは戸惑いの表情を浮かべる。魔法使いと、女に抱かれたままの魔女が視線を交わした。頷き合い、そろって皇子を見つめる。視線を感じ取った皇子は、こんな時でも微笑んだまま口を開いた。

「なにか?」
「これは俺の仮説だが、皇宮のある皇都は最後まで残る可能性があると思う。あそこに民衆を避難させたい。交渉を頼めるか」
「出来ることがあるのならば、何でも承りましょう。しかし」
「セレネすべての人間を皇都に治めることは難しいと思うぞ。もちろんそこらの街より広いことは認めるが、街に過ぎないことには変わりない」
「竜族に依頼しよう」

アルセイドがそう告げると、視線が集まった。魔法使いと視線を合わせる。皮肉に唇の端が上がる。

「どんな? 云っておくが魔法をかけ直す、という依頼は無理だぜ。一度動かした魔法は竜族自身にも止められない」

そうじゃない、と首を振る。美女に抱かれたままの魔女を気遣わしげにちらりと眺めて、

「次に消滅する可能性が高い街の住人を竜族に救ってもらうんだ。そして皇都に送り込む。その為の交渉を、やってくれるだろう?」

云いながら皇子らを見つめれば、皇女は戸惑ったように兄を見つめる。兄は余裕を保ったままだ。

「承りましょう。幸いにも向こうから接触がありましたのでね。皇女アルテミシアの首を引き渡す代わりに、和平をと」
「そんな」

皇女と魔女の言葉が重なった。彼女たちは一瞬、お互いを認め合い、それぞれに口を開く。

「アルテミシアだけを引き渡すつもりなのか。帝国の侵略は皇帝だけが決定したことではないのだろう」
「あの子をむざむざと死なせるおつもりですか、兄上。それでは何のためにここに」
「もちろん、その申し出は却下させていただいたよ。彼らの思惑はどうであれ、あの子はわたしたちの妹なのだからね」
「……それは聞き捨てならない言葉ですな。帝国皇帝アルテミシアのために、どれほどの命が失われたか、ご存知なのか」

レジスタンスのリーダーの1人が、口をはさむと、そうだと頷く声が上がる。アルセイドは黙って目を伏せた。
世界中の憎しみを集め、人類の意思をひとつにする。アルテミシアの意思とはそういうものだ。

だがそれは自身の命と引き換えの決意でもある。だからアルセイドは云った。おまえの想うがままに世界は動かないと。ところがそうではないのだろうか。やはり、ただひとりの少女の意思のままに、人類は踊らされるしかないのか。

「わたしは、アルテミシアなど、どうでもよいと思う」

澄んだ声が、ひときわ印象的にその場に響いた。カイナの声である。
幼さをまだ残したレジスタンスのリーダーは、それでも年齢に似合わぬ落ち着きを以ってくるりと回りを見つめた。

「正直に云って、いまは消滅しつつある魔法からセレネの人民を守ることが最優先事項だろうと思う。復讐はガイアに辿り着いてからでも出来る。それより、皆が死なないように導くのが我らの務めではないだろうか。ちがうか」
「竜族への依頼は、わたしがやる」

美女からようやく体を起こした魔女が、カイナの言葉に続いた。
アルセイドを見て、魔法使いを見て、カイナを見て。
そして最後に、帝国より追放された皇子たちを見つめる。

「ガイアの回復は成された。だから助かる道はある。復讐は後回しという意見には私も同意だ。今はそんなことを考える状況ではない」

そして同時に、と魔女は続けた。

「ガイアへの橋の修復が可能となったか、ドワーフたちに確認する必要がある。アルセイド、これはおまえに依頼するべきか?」
「万が一の時には、俺の『塔』を動かす。心配するな、助かる道はある。復讐などで失うには惜しい道がな」

2人の言葉を受けて、アルセイドは笑った。2人の少女の言葉に、この場の空気は変わろうとしている。
復讐などどうでもいい。かつてアルセイドが帝国皇帝に云い放った言葉だ。その時の気持ちを思い出して、改めて大きく頷いた。

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